台風10号の被災地へ届け

記録的な猛暑の夏が終わりを告げる頃から、続けざまに台風が列島を襲っている。


特に岩手県大船渡市付近に上陸した強烈な台風10号は、大雨による大きな被害を岩手県や北海道にもたらした。東北の太平洋側に直接上陸するのは1951年の統計開始以来初めてということだ。


かつて見たことのない台風のコースをとったのは、温暖化による要因との指摘もある。
岩手県岩泉町などで多くの方々が亡くなられた。心よりご冥福をお祈りする。

 

とりわけ震災後、毎年訪れ現地の仲間も沢山いる思い入れのある岩手県での災害は心苦しかった。

地震津波災害だけでなく、台風までも想定をはるかに超えた規模になるとは‥。

 

逸早く支援活動に動き出され、タオル等を集めておられる団体さんもいた。


フェイスブック上でその情報を知り、被災地久慈市に未使用タオルを送らせて頂いた。東日本大震災支援活動でご縁が繋がった岩手出身の方のご友人を通じて、被災した家や飲食店、保育所などにピンポイントで届けてくださった。


わずか15枚程のタオルだったが、関西からの応援に涙されていたという報告があった。


埃をかぶって棚の奥で眠っていた我が家のタオルが、被災された方々のために役に立ち嬉しかった。


大きな物は片付いたけれど、中の小物はまだまだで道路も泥だらけと現地からの報告メールを頂いた。


行方不明者の捜索と1日でも早い現状復帰を心よりお祈りする。

 

更に現在は台風13号による大雨が各地を襲っている。厳重に警戒して頂きたい。

 

 

東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】最終話

「これから向かう場所ですが、線量が高く被爆することになります」というガイドさんからの一言によって緊張感が増した。

 

ツアー後半に訪れる場所はいよいよ、双葉町大熊町、年間50ミリシーベル以上の帰還困難地域が広がっている場所でもある。

 

国道6号線は要所要所に警察官が立っていて(若い警察官が目についたが‥)物々しい雰囲気だった。歩行者は勿論いない。バイクや自転車など二輪車以外の車は通行はできるが、窓は開けられないし、停車せずにそのまま突っ切らなければならない。

 

 道路と住宅の間にはバリケードが設けられ、そこにも警察官が立っている。

ガイドさんのガイガーカウンターの警報音が鳴り響く。エンジントラブルなど車に予期せぬことが起こり、この場所にしばらく取り残されたらと思うと底しれぬ不安感にさいなまれる。

f:id:m-eishumonk59:20160819003308j:image

 

ほんの数キロ先には第一原発。白い排気塔が見える。

f:id:m-eishumonk59:20160819003419j:image

 

ガイドさんの案内で抜け道を使い富岡町の夜ノ森駅付近に着いた。そこでガイドさんは元JR常磐線の車掌さんだと知った。通りで詳しい訳だ。

 

車から降りるとカウンターの線量がぐんと上昇した。

夜ノ森駅の周辺にはツツジの木がたくさんあり、花が咲く時期には徐行運転をして乗客に楽しんでもらっていたと懐かしそうに語っておられた。

 

更に富岡町には桜並木もあり、毎年多くの花見客が訪れる名所であった。原発事故の後、花見客が集まることはなくなっても桜並木たちは毎年怠ることなく美しい花を咲かせる。ガイドさんが持っておられれた満開の桜並木の写真を見せてもらった。

 

住宅街近くの帰宅困難地域とそうでない境界を通過した。バリケードが張り巡らせていた。中には真新しい家もあった。住めずにローンだけが残った人もいるだろう。補償、賠償の問題はどうなっているのだろうか?

 

汚染された廃棄物や汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設が予定されている大熊町双葉町にまたがるその場所には、フレコンバックと呼ばれる袋詰めにされた汚染土などが積み上げられていた。

そのフレコンバックは、どんどん増え続けるのだ。古いものは当然劣化する。

 

尚、廃棄物は30年以内に県外に搬出し最終処分と法律で定められているそうだが、最終処分先のめどはついておらず、中間貯蔵施設がそのまま最終処分所になるのではと仰っていた。

 

初めて訪れた福島原発被災地。宮城、岩手の被災地と大きく異なるのは、放射能汚染地域があること。先が見えないということ。そこは山があり、海があり美しい自然に恵まれた本当に良い場所。

原発さえ、事故さえなければ、他の被災地のように復興が進んでいるはず。

 

おわり

f:id:m-eishumonk59:20160819004054j:image

 

 

 

東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その4

福島と聞いて、あたかも「福島全体が汚染されている」と思われている人がいらっしゃるかも知れない。また、遠く離れた海外の方にとっては、「Fukushima全体が危険な地域だ」ととんだ誤解をされている人もいるようだ。

 

かつてチェルノブイリが死の街と言われ、広範囲に被害が及んでいるいると恐れられた時のように‥。


福島県は北海道、岩手県に次いで全国で3番目に広い面積である。その中で帰還困難地域を含む原発被災地と言われる地域は、ごく一部であることを確認しておきたい。


でも実際に私も現地に行くまでは、その距離感がゆず知れず、福島第一原発が肉眼で見える位置まで来れるとは想像だにしなかった。

 

原発から距離が近い場所が放射線量が高く、離れていくに連れて低くなるとは限らない。それは風向きによって大きく変わるのだ。そのことはガイドさんが持っておられたガイガーカウンターの数値でも確認できた。


水素爆発が起こり北西の風に乗って拡散されいたという事実は、後になって発表された。

当時は多くの住民が浪江町の津島地区に避難していたが、浪江町の町民や町長にも知らされなかった。

いや浪江町の町民だけでなく、政府は日本国民に真実を隠蔽したのだった。

 

次に訪れた浪江町の請戸地区は今回最も印象に残った場所となった。7キロ先には福島第一原発の排気塔がはっきり見える。


太平洋に面し県内有数の漁港がある所としても有名、請戸海岸には海水浴場もあり、震災前のこの時期は毎年賑わっていた。


津波放射能汚染という未曽有の複合災害が起こったことで、漁師さん達の威勢の良い掛け声、子どもたちの笑い声、家族の団欒が消えた。


沿岸から約500メートルの位置にある請戸小学校の校舎だけが残り、他は殆んど何もなかった。同校の生徒さんは避難したため奇跡的に1人の犠牲者も出さなかったそうだ。


だが津波は多くの人の命を奪った。更に原発事故による悲劇が起こる。それで助かるはずの命が救われなかったのだ。

 

翌日、残された多くの生存者によって救助を求めるクラクションが鳴らされていたそうだが、消防や自衛隊が救助に向えないという事態が起こっていた。

 

その無念さは計り知れない。浪江の町は家畜だけでなく人間も見捨てられた場所だった。

私は請戸に向かって合掌して読経をさせて頂いた。

 

 つづく

f:id:m-eishumonk59:20160806235236j:image

f:id:m-eishumonk59:20160806235304j:image

東北の旅2016〜会いたい仲間に会いに行く〜【福島原発被災地編】その3

福島第一原発20キロ圏内、帰還困難区域が大きく広がる浪江町‥。歌手の長渕剛さんも震災後『カモメ』という曲でこの町のことを書かれていた。大阪でのライブでその曲を聴いた際には未だ見ぬ浪江町の情景が現われ涙が溢れ出した。

 

ガイドさんに浪江町の農村部の奥まった場所にある一軒家を案内された。
草木が伸び放題に生い茂る庭には、駐められたままの一台のK4車、家屋に目をやると洗濯物や下駄箱がそのまま残されていた。ガイドさんの説明によると、イノシシや他の動物が家の中に侵入して食べ物をあさり、毛布を引っ張り出した様子がうかがえるとのことだ。

 


ここに住まれていたご家族は、どこかで新たな生活を送っておられるのだろうか?
そのような震災直後に放置されたままの家は他にも沢山存在する。

 

その後、JR常磐線の浪江駅に向かった。静まり返った駅周辺、事故から5年以上が過ぎた今でも、そこは時間が止まったまま。よくゴーストタウンと表現されることがあるが、そのような一言では表現仕切れないし、私は率直に適切な表現ではないと感じた。

f:id:m-eishumonk59:20160802004129j:image

 

「海と緑にふれあうまち」という駅前の看板にあるように、町民始め多くの方に親しまれ愛されてきた素晴らしい町なのに、あの事故さえなければと思う。

 

タクシーが来ることのないタクシー乗り場は寂しげであった。駐輪場には最近まで自転車が置き去りにされていたそうだが、撤去されたようですと仰っていた。 

f:id:m-eishumonk59:20160802004158j:image

 

f:id:m-eishumonk59:20160802004735j:image


近くの新聞店の前を車でゆっくり通った。配達することが出来なかった3月12日から14日までの新聞が山積みにされていたとのこと。


誰もいない酒屋さん、散髪屋さん、銀行、病院などが軒を並べる。震災前の人々が行き交う光景が容易に想像出来る。中には新築のような家もあった。

 

 

浪江駅の近くにモニタリングポストが設置されていた。やはり放射線の量は気なるところだ。

 

f:id:m-eishumonk59:20160802004225j:image


原発事故の後は、シーベルトやベクレルについての解説が御用学者からあったことを思い出す。当時の官房長官から「直ちに人体に影響はない」という言葉を何度も耳にした。

 

簡単に復習すると、シーベルトとは人体が影響を受ける線量の単位で、ベクレルとは放射性物質の総量を測る単位である。

 

なぜか、設置されているもモニタリングポストはガイドさんが持っているガイガーカウンターよりも低い数値が出ているそうだ。勿論地面からの高さなど測り方によっても変わってくるそうだが、何かしらの意図が働いているとしたなら大問題だ。

 

避難区域に関しては聞いただけでは分かりにくいので、ガイドブックにある色分けされた最新の地図を見ながら位置情報を確認した。

 

帰還困難地域は年間50ミリシーベルト以上の高い線量のある地域。居住制限区域は、年間20〜50ミリシーベルト未満の地域。そして避難指示解除準備区域は年間20ミリシーベルト未満の地域。

 

今、徐々に避難指示解除がされ始め、「住むことが出来ますよ」と行政は帰還を呼びかけ環境整備を目指している。

 

でも、新しく避難指示が解除された地域でも、実際にはほとんど帰還されていないそうだ。新しい生活、仕事のこと、子供のこと、賠償問題など様々な要因が絡み合いすんなり進むはずがない。

 

「故郷には帰りたいが、安心して帰れない。特に子供のことを思うと尚更‥」率直に私ならそう考え、躊躇するだろう。

いずれにせよ非常に複雑で難しい問題である。

 

つづく

 

 

 

 

東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その2

我々が案内された場所は、南相馬市小高区浪江町の境界にある「希望の牧場」という所。
のどかで広大な牧場だった。牛たちが黙々と草を食べていた。

 f:id:m-eishumonk59:20160727004808j:image

そこで牧場主の吉澤さんという方をご紹介頂いた。

牧場のこれまでの歩みが分かる様々な写真や資料が展示されていたコンテナハウスで、吉澤さんから衝撃的なお話を伺った。中には餓死して白骨死体となった牛たち、体に白い斑点ができた牛たちの写真も展示されてあった。目を逸らさずにしっかり見なければと思った。

f:id:m-eishumonk59:20160727004840j:image

 彼は原発から20キロ圏内の旧警戒区域内で誰もいなくなったこの町に1人残り、国の殺処分に抵抗し、命懸けで牛たちの世話をして来られた。原発事故後、放射能を浴びた牛たちはもう売れない。一時避難をされていた場所から警察を説得してまで入り、当時330頭いた牛たちに水をやり、エサを与え続け命を守って来られた。「売れない牛を生かして意味があるのか?」と自ら問い考えられたが、牛飼いとして牛たちを生かそうとされたのだ。

 

命を守る為には大量のエサが必要でありお金もかかる。全国からの支援者によって送られて来たエサが牛たちの命を繋いだ。近くの牧場主から頼まれた牛や、彷徨って来た牛たちも引き取った。それでも多くの牛たちが死んでいったが、一時牧場を離れる時にわざとフエンスを開けっ放して行ったことで、他の牧場からの牛もやって来た。

牛たちは必死で生きようとしていたのだ。そこで交尾が行われ、新しい命も誕生した。我々がその時目にした牛の多くは震災後に生まれた牛たちだそうだ。

 

コンテナハウスの前には改造された牧場の宣伝カーがあった。吉澤さんは、その宣伝カーを自ら運転し、東京や全国各地どこにでも行き、この理不尽な現状を訴える。

f:id:m-eishumonk59:20160727004925j:image

あの時、日本の危機を救うために出動し、決死の覚悟で2号機に放水作業を行ったのは自衛隊員だった。冷却に成功していなかったら、東日本だけでなくこの国は壊滅状態であったであろう。

それでもこの国は原発は安全だと言って外国にも売ろうとしている。

吉澤さんは命のある限り、どこにでも行って、国や東電、そして国民に訴え続けると力強く語っておられた。

 

つづく

f:id:m-eishumonk59:20160727005019j:image

東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その1

一週間経ってやっと書き出すことが出来たブログです。今回のブログは私が福島の原発被災地で見聞きしたことを本気で書きました。読んで頂ける方はそれなりの心構えで読んで頂ければ有り難いです。

 

 去る7月16日、我々が仙台空港からレンタカーで向かった先は約40キロ離れた相馬市だった。

2012年10月、私は妻と相馬市まで行ったがその先へと車を進めることをしなかったのは、正直言って、目に見えない放射能という存在に恐れをなしたことも理由の一つにあった。


その後、実際現地に足を踏み入れ、知っておかなければならないという思いが募っていった。訪問せずして福島について、原発について私は何も語ることができないと思ったからだ。

 

そこで、ネットでツアーを調べ、相馬市にあるNPO野馬土【のまど】さんが取り組んでいる福島第一原発20キロ圏内、約4時間のツアーに参加させて頂いた。


野馬土プロジェクトとは、「福島の被災農家を支えよう」「相馬に復興の砦を築こう」ということで地域活性化運動に懸命に取組んでおられる。


私が運転するレンタカーの助手席にガイドさんが乗車頂き案内して頂いた。

 

車内で「福島の悲しみを知ってください」と書かれた原発被災地ガイドブックを購入し、最初に向かった先は南相馬市だった。

 

f:id:m-eishumonk59:20160725000842j:image

 

先ず放射能汚染についてのお話があった。福島の米、野菜、魚は全てしっかりと放射線量の検査がされ、安全なものだけが出荷されているということをお知りおきいただきたいとのお話だった。

 

だが直後、衝撃的な事実を知らされる。

 福島において、甲状腺ガンや疑いのある子供さんたちの数は急増しているが、行政は原発事故による放射能の影響との因果関係を認めようとはしない。ネットなどの記事で知ってはいたが、実際現地のガイドさんからそれを聞くと信憑性が増す。

 

そういったお話を聞きながら、白い作業着に身を包み除染作業をされている幾人もの姿があった。

 

除染は主に平地で行われ、表土を削り取り除去し、運んで来た山土が敷かれる。色が変わっているので直ぐに分かる。除染作業で出た汚染土などはフレコンバックという黒い袋に入れられ、仮置き場にどんどん積まれて行く。除染が進むほどその量は増える。

 

フレコンバックは、数年間風雨にさらされると当然劣化する。漏れ出すことで二次汚染が懸念される。

その異様な光景と、中に入っているものを想像すると恐ろしくなってくる。

 更に森林や急斜面は事実上不可能ということで除染はなされていないことも知った。

 

南相馬市小高地区と浪江町の境にある牧場で車を停めた。我々がそこで見聞きしたことは衝撃的であった。

 

つづく

 

f:id:m-eishumonk59:20160727005155j:image

 

 

 

 

 

  

沢山の学びがあったお寺英会話サークル!

今日は久しぶりに第142回お寺で英会話サークルYKENGを開催しました。

始めに皆さんの好きな食べ物を当てるゲームから‥。

博識家でもある参加者のお一人の好きな食べ物バッテラで、それにまつわる様々なことを教わりました。

「バッテラ」の語源はポルトガル語で小舟を意味するそうです。

明治時代に大阪の鮨屋で、コノシロという海水魚の切り身を乗せていた箱が小舟のように見えたのがきっかけで、後にバッテラと呼ばれる寿司が生まれたそうです。バッテラの歴史はポルトガル語と大阪にあったのです。


それから私が担当したのは、英字新聞 週刊STの記事を使ってゲームをしました。

土用の丑」に関する記事を読んでもらい分からない単語をピックアップ、意味を調べ、単語カードを作ってもらいました。

記事に書かれていた内容から、土用の丑の日に鰻を食べる習慣は、江戸時代の博識者、平賀源内の発案であったという説があります。彼の友人が鰻屋を営んでおり、夏場に鰻の売れ行きが悪くて困っていた友人を助けるため、平賀源内が夏に食べてもらうよう宣伝したことに始まるそうです。

 

英語は話せることが大切なのではなく、どう言ったことが話せるか、歴史や文化など語学を通じて何を学べるかが大切だと改めて思いました。 

次回はお盆のために少し開きますが、8月24日(水)午後8時から開催します。テーマは「リオオリンピックで印象に残ったシーンを熱く語る」というタイムリーなトピックです!

f:id:m-eishumonk59:20160713233640j:image