東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その2

我々が案内された場所は、南相馬市小高区浪江町の境界にある「希望の牧場」という所。
のどかで広大な牧場だった。牛たちが黙々と草を食べていた。

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そこで牧場主の吉澤さんという方をご紹介頂いた。

牧場のこれまでの歩みが分かる様々な写真や資料が展示されていたコンテナハウスで、吉澤さんから衝撃的なお話を伺った。中には餓死して白骨死体となった牛たち、体に白い斑点ができた牛たちの写真も展示されてあった。目を逸らさずにしっかり見なければと思った。

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 彼は原発から20キロ圏内の旧警戒区域内で誰もいなくなったこの町に1人残り、国の殺処分に抵抗し、命懸けで牛たちの世話をして来られた。原発事故後、放射能を浴びた牛たちはもう売れない。一時避難をされていた場所から警察を説得してまで入り、当時330頭いた牛たちに水をやり、エサを与え続け命を守って来られた。「売れない牛を生かして意味があるのか?」と自ら問い考えられたが、牛飼いとして牛たちを生かそうとされたのだ。

 

命を守る為には大量のエサが必要でありお金もかかる。全国からの支援者によって送られて来たエサが牛たちの命を繋いだ。近くの牧場主から頼まれた牛や、彷徨って来た牛たちも引き取った。それでも多くの牛たちが死んでいったが、一時牧場を離れる時にわざとフエンスを開けっ放して行ったことで、他の牧場からの牛もやって来た。

牛たちは必死で生きようとしていたのだ。そこで交尾が行われ、新しい命も誕生した。我々がその時目にした牛の多くは震災後に生まれた牛たちだそうだ。

 

コンテナハウスの前には改造された牧場の宣伝カーがあった。吉澤さんは、その宣伝カーを自ら運転し、東京や全国各地どこにでも行き、この理不尽な現状を訴える。

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あの時、日本の危機を救うために出動し、決死の覚悟で2号機に放水作業を行ったのは自衛隊員だった。冷却に成功していなかったら、東日本だけでなくこの国は壊滅状態であったであろう。

それでもこの国は原発は安全だと言って外国にも売ろうとしている。

吉澤さんは命のある限り、どこにでも行って、国や東電、そして国民に訴え続けると力強く語っておられた。

 

つづく

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