東北の旅2016〜会いたい仲間に会いに行く〜【福島原発被災地編】その3

福島第一原発20キロ圏内、帰還困難区域が大きく広がる浪江町‥。歌手の長渕剛さんも震災後『カモメ』という曲でこの町のことを書かれていた。大阪でのライブでその曲を聴いた際には未だ見ぬ浪江町の情景が現われ涙が溢れ出した。

 

ガイドさんに浪江町の農村部の奥まった場所にある一軒家を案内された。
草木が伸び放題に生い茂る庭には、駐められたままの一台のK4車、家屋に目をやると洗濯物や下駄箱がそのまま残されていた。ガイドさんの説明によると、イノシシや他の動物が家の中に侵入して食べ物をあさり、毛布を引っ張り出した様子がうかがえるとのことだ。

 


ここに住まれていたご家族は、どこかで新たな生活を送っておられるのだろうか?
そのような震災直後に放置されたままの家は他にも沢山存在する。

 

その後、JR常磐線の浪江駅に向かった。静まり返った駅周辺、事故から5年以上が過ぎた今でも、そこは時間が止まったまま。よくゴーストタウンと表現されることがあるが、そのような一言では表現仕切れないし、私は率直に適切な表現ではないと感じた。

f:id:m-eishumonk59:20160802004129j:image

 

「海と緑にふれあうまち」という駅前の看板にあるように、町民始め多くの方に親しまれ愛されてきた素晴らしい町なのに、あの事故さえなければと思う。

 

タクシーが来ることのないタクシー乗り場は寂しげであった。駐輪場には最近まで自転車が置き去りにされていたそうだが、撤去されたようですと仰っていた。 

f:id:m-eishumonk59:20160802004158j:image

 

f:id:m-eishumonk59:20160802004735j:image


近くの新聞店の前を車でゆっくり通った。配達することが出来なかった3月12日から14日までの新聞が山積みにされていたとのこと。


誰もいない酒屋さん、散髪屋さん、銀行、病院などが軒を並べる。震災前の人々が行き交う光景が容易に想像出来る。中には新築のような家もあった。

 

 

浪江駅の近くにモニタリングポストが設置されていた。やはり放射線の量は気なるところだ。

 

f:id:m-eishumonk59:20160802004225j:image


原発事故の後は、シーベルトやベクレルについての解説が御用学者からあったことを思い出す。当時の官房長官から「直ちに人体に影響はない」という言葉を何度も耳にした。

 

簡単に復習すると、シーベルトとは人体が影響を受ける線量の単位で、ベクレルとは放射性物質の総量を測る単位である。

 

なぜか、設置されているもモニタリングポストはガイドさんが持っているガイガーカウンターよりも低い数値が出ているそうだ。勿論地面からの高さなど測り方によっても変わってくるそうだが、何かしらの意図が働いているとしたなら大問題だ。

 

避難区域に関しては聞いただけでは分かりにくいので、ガイドブックにある色分けされた最新の地図を見ながら位置情報を確認した。

 

帰還困難地域は年間50ミリシーベルト以上の高い線量のある地域。居住制限区域は、年間20〜50ミリシーベルト未満の地域。そして避難指示解除準備区域は年間20ミリシーベルト未満の地域。

 

今、徐々に避難指示解除がされ始め、「住むことが出来ますよ」と行政は帰還を呼びかけ環境整備を目指している。

 

でも、新しく避難指示が解除された地域でも、実際にはほとんど帰還されていないそうだ。新しい生活、仕事のこと、子供のこと、賠償問題など様々な要因が絡み合いすんなり進むはずがない。

 

「故郷には帰りたいが、安心して帰れない。特に子供のことを思うと尚更‥」率直に私ならそう考え、躊躇するだろう。

いずれにせよ非常に複雑で難しい問題である。

 

つづく