南森町で英語教室開講!〓英会話サークルMENGで幕開け〓
ついに「英語教室みたむら」が開講しました。ご縁あって大阪市北区は南森町、天神橋筋商店街にある立地の良い教室で妻が英語教室を始めることになりました。
11月16日夜7時から第1回英会話サークルMENG(エミング)で幕が開かれました。
サークル名、MENGのMは南森町のMとみたむらのM、ENGはEnglishのENGです!
英会話サークルと言えば、これまでお寺で2010年から通算150回近く続けてこれましたし、また梅田や難波でも一昨年まで定期的に開催してきました。
結婚後、英会話や日本語教育を多少なりとも学んできた私も、微力ながらサークルのアシスタントやお寺ではMCなど務めさせて頂けるようになりました。
昨日はお陰様で満席の中、私も南森町教室でのアシスタントデビューとなりました。
自己紹介に始まり、英語で早口言葉、describeゲームなどで盛り上がり、あっと言う間の1時間でした。私もロールプレイイングゲームを担当させて頂き、皆さんに名役者になって頂きました(笑)。
やはり楽しみながら学ぶことは大切なことですね。
大人になってから始める英語学習、文化的なことなど知識も増え、コミュニケーション能力も確実にアップしますよ!
佐賀・熊本旅行記 〜最終日 熊本〜
私にとっては約3カ月ぶりの熊本たった。熊本と言えば4月に最大震度7という巨大な地震が2度も起こり、50人もの方が亡くなられた。
まだ、5カ月しか経っていないのに報道はほとんどされなくなった。
熊本に行ってお金を落とすことも支援の1つである。先ずは関心を寄せ、応援し続けることが大切なこと。
5月に訪れた際には、熊本市内のホテルも被害を被り営業されていなかったり、営業していても満室だったりで、何とか一室だけ空いていたビジネスホテルのトリプル部屋に泊まることができた。
今回は熊本駅前のニューオータニ熊本だったが、復旧工事も大体終わり、8月1日から営業再開したと仰っていた。従業員のホスピタリティがこちらに伝わってきた。
その夜は、5月に行った際に「また必ず来ます」と店員さんに約束した肥後料理「肥後の陣屋」さんを探して行った。その店員さんも「頑張るしかないですね」と熊本弁で話されたのが印象深かった。最後に頂いた名物熊本城瓦そばは美味しかった。
翌日は最も被害の酷かった益城町を再訪。震災から4カ月が過ぎた今も手付かずの倒壊した建物が軒を連ねる。あの時の風景と何も変わっていない‥。
被災した日蓮宗 道安寺さんの竹本住職と再会しお話。被災した堂内、庫裡のある建物にはもう住めない。御本尊を階下に移し「来れる方に集まって頂き、何とかお盆の施餓鬼法要ができました」というお話。前を向いて頑張っておられるお姿に感銘を受けた。
見渡す限り、倒壊した建物は解体が全くと言ってよいほど進んでいない。県内だけの解体業者だけではとても追いつかない。行政からの補助金の問題など山積みだ。
正直言って、東京オリンピックどころではないことが現地に行くとよく分かる。
その後は、北区の植木町にある田原坂公園に向かった。明治10年に起こった国内最後の内戦、西南戦争最大の激戦地が熊本にある事をご存知だろうか?今回の地震で石垣が崩れた熊本城も鎮台が置かれるなど戦いの舞台であった。
昨年リューニアルオーブンした西南戦争資料館は、残念ながら5時を過ぎてしまっていたので入館出来なかったが、また今度ゆっくり見学したいと思う。
こう見えて歴史好きの私、20代の頃に読んだ司馬遼太郎さんの西南戦争が描かれた『飛ぶが如く』を今再読している。西南戦争戦没者慰霊碑前で合掌し、熊本を後にした。
熊本には色々な思いが込められた場所が沢山ある。
他にも肥後の食べ物は美味しいし、お酒も美味しい!くまモンに会いに行き、くまモングッズを買うの良し!
おわり
佐賀・熊本旅行記 〜2日目 嬉野温泉〜
別府温泉や湯布院温泉に比べると幾分大人しそうなイメージがある嬉野温泉だが、日本三大美肌の湯に数えられる名湯。ぬめり感のあるお湯が、みずみずしい肌を甦らしてくれそうなお湯だった。
夕食には、嬉野温泉湯豆腐も頂き、地元の焼酎を嗜みながらリラックし、頑張ったお盆の疲れを癒すことができた。
翌日は嬉野茶を買い求めに、スマホで調べた周辺のお店を回った。因みに嬉野茶はうちの妻が大好きなお茶の1つでもある。
中心部を散策していると、足湯と足蒸ができる所があり試したが、リフレクソロジーをしてもらった後のように血行が良くなり足が軽く感じた。
ところで、嬉野温泉には「なまず様」が祀られている神社があることを聞いており、気になるので寄ってみた。
そこは、豊玉姫神社と言い、海の神の娘である豊玉姫の使いとされるのが、嬉野に古くから住んでいるなまずだそうだ。なんと美肌の神様だとか‥。
このような嬉野温泉は女性がにとって嬉しそうな温泉なのだ‥(笑)
昼食は地元のお茶屋さんの美人定員さんも行かれると言っておられた「ぎゅう丸」さんに行った!
人気のパイ包みのスープもハンバーグも美味しかった。
夕方にはレンタカーで熊本方面に向かっていた。
つづく
佐賀・熊本旅行記 〜初日 有田町〜
8月29日から遅い夏休みを取り、佐賀と熊本方面に行って来た。台風10号がちょうど東北地方へと進路をとっている時だった。
博多からレンタカーを借りて周遊した。
先ず訪れたのは、佐賀県西部に位置する有田焼で有名な有田町。ちょうど今年は有田焼創業400年を迎え、イベントなども開催されている。
有田町には先代住職の代からお付き合いがあり、自坊にもよく来られる陶樹庵さん(矢持庵主)を訪れた。
数多く美しい焼き物が並ぶ店内で時間を過ごした後は矢持庵主自ら車で先導しながら町中をご案内頂いた。
15代にわたって受け継がれる伝統ある柿右衛門窯を見学した。国内のみならず世界中を魅了している柿右衛門様式というわれる暖色系の色彩で描かれ、乳白色の余白があるのが特徴である。まさに日本が誇る伝統工芸である。
ドイツのマイセンに代表されるように17世紀から18世紀にかけてヨーロッパに多大な影響を与えたのが伊万里や柿右衛門様式の磁器であったそうだ。
続いて日本で初めて磁器を焼成した有田焼の原料となる陶石の発掘場所である泉山陶石を訪問。
1616年に陶工だった李参平によって発見され採石場国の史跡にも指定されている。
限られた時間であったが、貴重な時間となった。
旅というのは、様々な発見や学びがある。
その夜は有田から車で20、30分の距離にある嬉野温泉でお盆の疲れを癒した。
つづく
台風10号の被災地へ届け
記録的な猛暑の夏が終わりを告げる頃から、続けざまに台風が列島を襲っている。
特に岩手県大船渡市付近に上陸した強烈な台風10号は、大雨による大きな被害を岩手県や北海道にもたらした。東北の太平洋側に直接上陸するのは1951年の統計開始以来初めてということだ。
かつて見たことのない台風のコースをとったのは、温暖化による要因との指摘もある。
岩手県岩泉町などで多くの方々が亡くなられた。心よりご冥福をお祈りする。
とりわけ震災後、毎年訪れ現地の仲間も沢山いる思い入れのある岩手県での災害は心苦しかった。
地震や津波災害だけでなく、台風までも想定をはるかに超えた規模になるとは‥。
逸早く支援活動に動き出され、タオル等を集めておられる団体さんもいた。
フェイスブック上でその情報を知り、被災地久慈市に未使用タオルを送らせて頂いた。東日本大震災支援活動でご縁が繋がった岩手出身の方のご友人を通じて、被災した家や飲食店、保育所などにピンポイントで届けてくださった。
わずか15枚程のタオルだったが、関西からの応援に涙されていたという報告があった。
埃をかぶって棚の奥で眠っていた我が家のタオルが、被災された方々のために役に立ち嬉しかった。
大きな物は片付いたけれど、中の小物はまだまだで道路も泥だらけと現地からの報告メールを頂いた。
行方不明者の捜索と1日でも早い現状復帰を心よりお祈りする。
更に現在は台風13号による大雨が各地を襲っている。厳重に警戒して頂きたい。
東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】最終話
「これから向かう場所ですが、線量が高く被爆することになります」というガイドさんからの一言によって緊張感が増した。
ツアー後半に訪れる場所はいよいよ、双葉町、大熊町、年間50ミリシーベル以上の帰還困難地域が広がっている場所でもある。
国道6号線は要所要所に警察官が立っていて(若い警察官が目についたが‥)物々しい雰囲気だった。歩行者は勿論いない。バイクや自転車など二輪車以外の車は通行はできるが、窓は開けられないし、停車せずにそのまま突っ切らなければならない。
道路と住宅の間にはバリケードが設けられ、そこにも警察官が立っている。
ガイドさんのガイガーカウンターの警報音が鳴り響く。エンジントラブルなど車に予期せぬことが起こり、この場所にしばらく取り残されたらと思うと底しれぬ不安感にさいなまれる。
ほんの数キロ先には第一原発。白い排気塔が見える。
ガイドさんの案内で抜け道を使い富岡町の夜ノ森駅付近に着いた。そこでガイドさんは元JR常磐線の車掌さんだと知った。通りで詳しい訳だ。
車から降りるとカウンターの線量がぐんと上昇した。
夜ノ森駅の周辺にはツツジの木がたくさんあり、花が咲く時期には徐行運転をして乗客に楽しんでもらっていたと懐かしそうに語っておられた。
更に富岡町には桜並木もあり、毎年多くの花見客が訪れる名所であった。原発事故の後、花見客が集まることはなくなっても桜並木たちは毎年怠ることなく美しい花を咲かせる。ガイドさんが持っておられれた満開の桜並木の写真を見せてもらった。
住宅街近くの帰宅困難地域とそうでない境界を通過した。バリケードが張り巡らせていた。中には真新しい家もあった。住めずにローンだけが残った人もいるだろう。補償、賠償の問題はどうなっているのだろうか?
汚染された廃棄物や汚染土を保管する中間貯蔵施設の建設が予定されている大熊町、双葉町にまたがるその場所には、フレコンバックと呼ばれる袋詰めにされた汚染土などが積み上げられていた。
そのフレコンバックは、どんどん増え続けるのだ。古いものは当然劣化する。
尚、廃棄物は30年以内に県外に搬出し最終処分と法律で定められているそうだが、最終処分先のめどはついておらず、中間貯蔵施設がそのまま最終処分所になるのではと仰っていた。
初めて訪れた福島原発被災地。宮城、岩手の被災地と大きく異なるのは、放射能汚染地域があること。先が見えないということ。そこは山があり、海があり美しい自然に恵まれた本当に良い場所。
原発さえ、事故さえなければ、他の被災地のように復興が進んでいるはず。
おわり
東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その4
福島と聞いて、あたかも「福島全体が汚染されている」と思われている人がいらっしゃるかも知れない。また、遠く離れた海外の方にとっては、「Fukushima全体が危険な地域だ」ととんだ誤解をされている人もいるようだ。
かつてチェルノブイリが死の街と言われ、広範囲に被害が及んでいるいると恐れられた時のように‥。
福島県は北海道、岩手県に次いで全国で3番目に広い面積である。その中で帰還困難地域を含む原発被災地と言われる地域は、ごく一部であることを確認しておきたい。
でも実際に私も現地に行くまでは、その距離感がゆず知れず、福島第一原発が肉眼で見える位置まで来れるとは想像だにしなかった。
原発から距離が近い場所が放射線量が高く、離れていくに連れて低くなるとは限らない。それは風向きによって大きく変わるのだ。そのことはガイドさんが持っておられたガイガーカウンターの数値でも確認できた。
水素爆発が起こり北西の風に乗って拡散されいたという事実は、後になって発表された。
当時は多くの住民が浪江町の津島地区に避難していたが、浪江町の町民や町長にも知らされなかった。
いや浪江町の町民だけでなく、政府は日本国民に真実を隠蔽したのだった。
次に訪れた浪江町の請戸地区は今回最も印象に残った場所となった。7キロ先には福島第一原発の排気塔がはっきり見える。
太平洋に面し県内有数の漁港がある所としても有名、請戸海岸には海水浴場もあり、震災前のこの時期は毎年賑わっていた。
津波と放射能汚染という未曽有の複合災害が起こったことで、漁師さん達の威勢の良い掛け声、子どもたちの笑い声、家族の団欒が消えた。
沿岸から約500メートルの位置にある請戸小学校の校舎だけが残り、他は殆んど何もなかった。同校の生徒さんは避難したため奇跡的に1人の犠牲者も出さなかったそうだ。
だが津波は多くの人の命を奪った。更に原発事故による悲劇が起こる。それで助かるはずの命が救われなかったのだ。
翌日、残された多くの生存者によって救助を求めるクラクションが鳴らされていたそうだが、消防や自衛隊が救助に向えないという事態が起こっていた。
その無念さは計り知れない。浪江の町は家畜だけでなく人間も見捨てられた場所だった。
私は請戸に向かって合掌して読経をさせて頂いた。
つづく