節分と恵方巻きについて!

昨日は節分で、冬至春分の中間にあたり、暦では立春となりました。
神社仏閣などでは豆撒きの行事や星祭りの厄除け祈願と言った例祭が執り行われたことと思います。因みに自坊では明日5日11時から行います。

加えて節分と言えば、近年恒例になっている恵方巻きを食べること、一般の方々にとってはこちらの方が馴染み深いものになってきているかも知れません。
あるコンビニではノルマ化され大変と、悲鳴に満ちたバイトの方によるツイートも流れていたようですね。

 

恵方巻きの意味と起源を知ると、来年から買い方や食べ方が変わるかも知れません。

毎年方角が変わる恵方というのは、陰陽道の神様である歳徳神がおられる方角です。
歳徳神というのは、その年の福徳を司る神様で、方角はその年周りの十干によって決まります。今年は丁で北北西のようです。

歳徳神は、歳神様、正月さまとも言われ、神様をお迎えする為に、そもそも正月に門松を飾ります。因みにどんど焼きは、歳神様をお見送りする行事として、門松や正月飾りなども一緒に焼くようです。お盆に行うお迎え火送り火にも似ていますね。

いつしか福をそのまま呼び込もうと、巻き寿司の丸かじりが始まったとか…?
由来は諸説あるようです。


昭和初期に大阪の寿司屋組合が宣伝の為に行ったとか、オイルショック後に海苔の需要拡大を狙い大阪の道頓堀で早食い競争のイベントを行ったとか言われています。
また、ここでは具体的には書けませんが、昔大阪の花街などで、遊女や芸子に丸かじりさせ男性が楽しむお遊びが流行っていたとか…。


いずれにしても大阪が発祥のようでして、平成元年になって広島市セブンイレブン恵方巻きとして売り出されたのがヒットし、やがて関西や全国でも販売されるようになり、今に至るようです。

今も昔も罰当たりと言いましょうか、遊び感覚や商売が縁起担ぎと結び付いたという、まさに人間の煩悩の表れの象徴ですね。
果てして歳徳神さんは有名になって嬉しいのか、怒っておられるのか私は全く分かりません。

先代住職の三回忌が無事に終わる

大阪夏の陣の道明寺の戦いで戦死した槍で有名な武将、後藤又兵衛は、かつての主君であった黒田官兵衛の死後、三回忌法要が終わるのを待って黒田家を出奔しました。
父親のように慕った主君への後藤又兵衛の忠義が讃えられています。

 

亡くなってニ年後に迎える三回忌はある意味で大きな節目でもあり、特に丁重にご供養することが大切です。

余談ですが、死後ニ年後に三回忌を迎えるのは、数え年のように亡くなった時を既に一回忌として数えるからであります。亡くなって一年後だけは二回忌と言わずに一周忌とします。

 

28日は先代住職 龍昇院日宗上人の第三回忌法要を厳修させて頂き、多くのご寺院様を始め、総代・役員さんにご参列頂きお焼香を戴きました。

早いもので、先代住職が忽然として遷化され2年の月日が流れました。ここまで滞りなく無事に勤めさせて頂けたのも、お力添えを賜った多くの方々のお陰であります。


この日ご参列頂いたのは、先代が好きだった大切な仲間、先輩、友人、後輩、慕って下さった方々…。きっと喜んでいることでしょう。


今後は師父の遺誡を守り自分らしさを発揮し、内には給仕、外には教化活動を行い善行を積むことが何よりの供養となることでしょう。

三回忌が終わり、少しずつ羽ばたいても良いのかも知れませんね。主としてお寺の守りはしっかりと固めつつ。

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八尾市仏教会ついにデビュー

昨日は八尾市仏教会の総会並びに懇親会に初めて参加させて頂いた。

先代住職は副会長として、当会に影響力を及ぼし、かつまた、皆様と懇意にさせて頂いていたことがよく分かり、嬉しい気持ちになった。他宗のお寺さんとな交流も大切なこと。

 

総会後の意見交換会では、加登石材店さんより「今どきのお墓事情」ということで講義があり、当山も墓地経営をしていることもあり、興味深く聴かせて頂いた。

 

墓場離れは寺離れ、葬式離れと共に「三離れ」の一つでもあり、関連業界の中では深刻な問題となっているのは周知の事実。

 

埋葬方法は、樹木葬や散骨、宇宙葬など多種多様化時代でもあるが、当然石材店としては暮石を購入してもらうのが一番。

 

お墓を購入されない主な理由としては、子供に負担をかけたくないなど相続の問題、手入れの問題等があるそうだ。

 

高齢など何らかの理由でお墓参りに行けなくなり、お寺に墓守をしてもらい。経済的な理由から管理料がかからない永代墓など無理難題を持ちかける方も増えているそうだ。

 

県別データによると、一番お墓参りに行く鹿児島県が一番イジメが少ないという因果関係があるそうだ。

 

墓じまい、改葬が増えている昨今、お寺側としては、ご先祖への感謝、供養の大切さ、お墓を持つ意義を一般の方々にお伝えすることが大切だと思う。

 

その後は、平素よりお世話になっている葬儀社の八光殿さん、仏壇店の八光堂仏具店さんも同席されての懇親会。こういった交流は大変良いことだと思う。我が宗門も取り入れて欲しいものだ。

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大阪朗門会として大本山本圀寺参拝

1月21日は、日蓮聖人の六老僧のお1人、日朗上人のご命日。毎年、大阪朗門会ではその聖日京都市山科にある大本山本圀寺で参拝しており、4回の参拝となった今年は11名でお参りさせて頂きました。雪が所々残っており、その日も底冷えがしました。

 

当会は大阪にある日朗上人縁故の御寺院様が集い平成25年に発足しました。当時初代会長として発足させたのが私の師父の先代住職でした。

本照寺も本圀寺の末寺になります。

 

本圀寺は帝都京洛における日蓮宗の古刹として勅願道場として栄え、西の祖山とも呼ばれます。

元々鎌倉の松葉谷に草庵を構え、法華堂と称されました。


ご入滅前の日蓮聖人から「立像釈尊像」と宗祖ご真筆の「立正安国論」と伊豆佐渡の「御赦免状」を「三箇の霊宝」として譲り与えられたのが日朗上人で、鎌倉松葉谷の本國寺に於いて教勢を広められます。後の日静上人の代に本國寺は帝都に移され、六条門流の基が築かれました。

 

江戸初期には水戸光圀公の帰依を受けたことで、寺号に圀が用いられるようになったと言われています。

大本山本圀寺は宗門の正嫡付法【しょうちゃくふほう】の根本道場とされ、現在に至っております。

尚、山科には天智天皇の御陵もあります。

 

その日は本圀寺の伊藤貫首様も御導師として法要、有難いお話を頂戴致しました。「仏祖へのお給仕が最も大切である」と仰っておりました。

 

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阪神淡路大震災二十三回忌の鎮魂、慰霊、供養

昨日は阪神淡路大震災から22年目の祥月命日だった。平成7年1月17日、早朝5時46分に突如として起こった激震により、6434名の尊い命が失われた。未だに行方不明者も3名いらっしゃる。
一昨年、昨日は神戸を始め阪神地区を中心に、色々な場所で慰霊が行われた。

 

昨日は午後4時から、日蓮宗大阪市宗務所主催の新年祝祷会において、阪神淡路大震災二十三回忌、東日本大震災七回忌、熊本地震一周忌の慰霊法要が行われ、出仕させて頂き、亡き御霊に祈りを捧げた。
愛する人を失った悲しみは計り知れず、我々僧侶はそういった方々の様々な思いを受け止め、鎮魂、慰霊、供養を精魂込めてしっかりと行うことが大切。勿論離れていても出来るが、現地に行けばさらにそれが感じられる。

 

現地に足を運び、地元の方々と交流することで、震災の悲劇をより身近に感じやすい。
慰霊供養とは、まず忘れないこととが前提にある。更には教訓として学ぶことにも繋がる。

 

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先代住職からの訓誡「人に喜ばれることを」

年始のお参りで檀家さんの家を毎日まわっている。
あるお家のTさんが、今年の暦を見ながらこう仰った。

数年前、真っ黒な星廻りの年は、どうしたらいいかと先代の住職に尋ねたところ「人に喜ばれることをすれば、黒が白に変わっていきます」と言われたそうだ。

 

まさにその通りで、お釈迦様は生まれによって地位や価値が決まるのではなく、行いによって決まるとカースト制を真っ向から否定した。

生年月日によって決まる運勢もそうで、変えられないのものではなくて、その人の行いによって変わっていくのである。

 

運勢、お調べ、星占いなど信じる信じないは自由だが、その結果や内容に固執し、捉われ過ぎると何も行動に起こせなくなる。それこそが仏教で苦や迷いの原因となる執着である。

亡き先代からTさんへのアドバイスを訓誡として受け止めようと思う。

初めて小豆島に行ってきた!

正月3日の早朝5時半、外はまだ夜明け前、暗闇の中自家用車に乗り込み、妻の実家がある広島県福山へ大阪から向かった。

 

午前中に到着し、その日のうちに高松に移動した。
愛犬のチワワと一緒だったので、ペット可のホテルに宿泊。


ペット連れで更に大変なのが食事の場所、高松市内の片原町商店街で見つけた「酒と焼鳥は文化」という看板が目に付いた居酒屋さん、外席があったので事情を話すと快くOK、レトロな雰囲気の漂う安くて美味いアットホームな感じの店だった。

 

翌日は朝から高松市内観光、愛犬も一緒だったので高松城跡庭園には入れず、源平による激戦が繰り広げられた屋島の合戦古戦場跡、対岸から臨める屋島を見ながら、当時の両軍の激しい戦闘がこの地で繰り広げられたと思うと身震いがする。

屋島山上へドライブ!高松市内も一望でき見事な眺望であった。

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行列ができる有名な讃岐うどん屋「一福」さんで昼食、その後フェリーに乗り小豆島へ。

実は小豆島を訪れるのは初めてで、前夜にフェリー利用が便利だと分かり行くことにした。

 

小豆島は香川県に属し、瀬戸内海では淡路島に次ぐ2番目の大きさ、日本の島の中では19番目の大きさだそうだ。オーリブ園や醤油記念館、二十四の瞳映画村などで有名。初めて行ったが思ったより広く2時間くらいの滞在ではとても周りきれない。その中でもオリーブ園に立ち寄った。日本でのオリーブ栽培の始まりは小豆島と言われるが、沢山のオリーブの木が立ち並んでいた。

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昭和天皇が立ち寄られた際に、種子を播かれ育ったという貴重なオリーブの木もあり、目にでき感無量。園内にはレストランやショップもある。

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 小豆島は醤油も有名で通りかかった金大醤油さんで万能のダシ醤油とガーリック油を買って帰った。

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帰りは小豆島福田港からフェリーで姫路へ。姫路から車で大阪に帰って来た。仕事の都合で1泊2日の束の間の休日だったが、新たな発見があった。
今度は「二十四の瞳」を映画か小説で読んでゆっくり当地を訪れたいと思う。