施餓鬼と目連尊者 〜餓鬼道に堕ちた人々を救うには〜

今年の猛暑は、渇いた喉を潤す水の有難さを改めて感じました。人間の命を繋ぐために最も大切なものが水です。

 

仏教では、三悪道【さんあくどう】の一つ餓鬼道(餓鬼界)に堕ちると、飢渇の苦しみを味わうことになります。

 

盂蘭盆施餓鬼法要で行う水向供養は、渇きの苦しみの状態から救うために、清らかで冷たい水を供養します。一人しか飲めない小さなコップではなくて、大きな鉢やお椀でお供えすることに意味があります。

 

 
盂蘭盆会の由来となっている有名なお話があります。それは、お釈迦様の十大弟子の1人である目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡きお母さんのお話です。

 

 

 
なぜあんなに優しかった目連尊者のお母さんは餓鬼道に堕ちたのでしょうか?

 

 

彼女は自分の息子である目連尊者には確かに優しかった。でもある時、近所の子供が病気になった時に、助けを求められたにも拘らず、お母さんは病で苦しむ子供に食べ物を分け与えようとしなかったのです。家族以外の人々には冷たかったのです。よって、物惜しみの罪によって餓鬼道へ堕ちてしまったのです。

 

 
目連尊者は、お母さんを餓鬼道から救い出す方法はないかとお釈迦様に相談したところ、「修行を終え戻って来る修行僧たち全員に、飲食物などの布施供養をしなさい」と言うことでした。

 

 

 
目連尊者は生前母が行わなかった布施供養を代わりに行い、修行僧とともに祈ったことで、その功徳によりお母さんを餓鬼道から救い出すことが出来ました。

 

 

このように、餓鬼に堕ちた亡き人々が苦しみから救われることを祈り、供養し施す意味で施餓鬼【せがき】という法要があるのです。

 

施餓鬼の行事の際、お菓子や果物、飲み物等をお供養としてお供えし、他の多くの参拝者や僧侶にも施す意味がお分かり頂けたかと思います。

 

 

 
神通第一と言われた目連尊者が母を苦から救うことができなかったのは、その時は目連尊者が小乗の教え、即ち自分さえ解脱できたら良いという教えを信じて、全ての人々の成仏が説かれる法華経の教えを知らなったからです。後に目連尊者が法華経を信じることで、本人自身が救われるのみならず、母親も救われ、成仏させることができたと日蓮聖人は、『盂蘭盆御書』で述べておられます。
 
自分や身内だけが満足したらそれで良いのではなくて、全ての人々が救われることを願い、本当の大乗の教えを実践することが大切です。
 

 

人と共に養うこと供養なのです。他者を思い感謝の気持ちを養うのです。

 

さて、明日は自坊でも施餓鬼の行事があります。そういった思いで参詣者一同で祈り、お題目を唱えたいと思います。