大阪チャリティー被災地 訪問記 〜第1話〜「気仙沼の防潮堤」

被災地訪問記、普通は初日から順番に書くのが常かも知れないが、今回は敢えて最終日から綴って行こうと思う。
7月20日、気仙沼プラザホテルで朝を迎えた。その日が今回東北応援ツアーの最終日。旅の最終日というのは大抵、やっと帰れると思うか、まだ帰りたくないと思うかの何れかであると思うが、今回は圧倒的に後者の気持ちに支配されていた。

気仙沼市内の視察見学ということで、前日にライブをさせて頂いたワインバー「風の広場」の伊藤さんと、圭子さんに車でご案内してもらった。外から見ているだけでは到底知り得ない闇の部分、また対照的に世界に誇れる程の美しい公園にも連れて行って頂いた。気仙沼を愛し、魅力溢れる気仙沼の再生を強く望んでおられるお2人の想いが伝わって来た。

初めに訪れた防潮堤。ダンプカーが激しく往来する砂煙の中を、そばまで自家用車で乗り入れた。眼前には写真のように工事中の堤防が気仙沼港を壁で覆うかのように建設が進めらていた。よく見ると等間隔に小さな覗き穴のようなものがある。まさかそこから、海を見ようと言うのだろうか?景観が損なわれるという声に応えているとでも言うのだろうか?

f:id:m-eishumonk59:20150722191443j:plain              f:id:m-eishumonk59:20150722191501j:plain

ご案内頂いた防潮堤は、一般住民があまり立寄らないような人目につかない所。堂々と胸張って建設工場が出来ないから、初期工事では住民の知らない間に工事を進め作ってしまうのが戦略であるという伊藤さんの言葉が妙に印象的で、防潮堤に限らず行政得意の戦法だと思った。

「胸壁の災害復旧工事を行っています」という大きな看板、下の方に目をやると17億2千万円との工事金額が小さな文字で書かれていた。これは一部分で、360億円以上とも言われる総工費はこんなものではないそうだ。被災地の沿岸部全体で400キロ一兆円計画があるが、まるで万里の長城を彷彿させる。

6メートルから14メートルの高さになるという防潮堤に囲まれ、海と陸を分断した町を作る…。そんな壁の中の生活、私がたまに慰問で訪れる建物の周囲を壁で囲まれた刑務所を思い出した。何の罪のない人がなぜ壁の中で生活しなければならないのだろうか。

伊藤さんが仰った。防潮堤も必要な場所とそうでない場所がある。高台まで遠く、避難に時間がかかる所は要るが、すぐ近くに高台があって住宅が防潮堤よりも上の高さにあるのに同じように作ろうとしているのだ。

東日本大震災では、防潮堤だけでは人間の命は守れないことを見せつけられたはずだったのに…。
今回の震災を経験した人が全ていなくなった100年後、堤防があるから安全だと信じ込み、避難をしなければ同じ悲劇の繰り返しとなる。行政は巨額の血税を使いハード面ばかりを整えようとしているのだ。
また、国、県、市それぞれが異なるやり方で建設を進めらることで、形状の異なる防潮堤が建設され、繋げられる現実がある。景観もなにもあったものではない。

防潮堤ではなく、避難ビルや避難タワーの建設という代替案もあるが、税金が下りないそうだ。なぜなら巨大防潮堤建設計画は、東北の被災沿岸部だけに特化した国の復興計画だけではなく、全国規模の国土強靱化計画なのである。故に国や行政は防潮堤建設を推し進めるのだ。これは他の地域の人にとっても他人事ではない問題である。

f:id:m-eishumonk59:20150722192659j:plain    f:id:m-eishumonk59:20150722192733j:plain   f:id:m-eishumonk59:20150722192853j:plain



つづく