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仏教の勉強会に参加「法華経講座」 〜第一講〜

先日、中央区中寺の正法寺様に於いて、日蓮宗専任布教師で寳泉寺住職の村尾泰孝師の「法華経講座」があった。先月から始まり、3年間で計33講の予定。3年間の講義を全て聴講する意思のある教師のみ対象の勉強会である。
要するに、行けたら行くというような生ぬるい気持ち、意欲のない受講者は受けなくて良いということ。主催者側も講師も、やる気のある聴講者だけに来て欲しい。
厳しい言い方だが、これは趣味のカルチャー教室ではない…。人に法を伝えることを本業としているプロが学ぶのだから当然だと思う。

昨日は雨の中、約二十数名が集まった。
学んだ内容をシェアさせて頂きたい。復習も兼ねて私が理解したことを、不勉強ながらも文面に表した。


第一講「講前準備」

◎説法を聴く心根
天台大師智顗が立てた「根性融不融の相」【こんじょうのゆうふゆうのそう】がある。それは法華経』と爾前経(釈尊法華経以前に説かれた経典)を比較し、勝劣を明らかにした三種教相の一つである。
まず衆生(私たち)の機根が釈尊の真実の教えを正しく受け入れられるかどうかが大切。融とは機根が素直に受け入れられる状態を指し、不融はその逆である。先ずは説法する側の心根と聴こうとする側の心根が大切。

◎法話の基本
聞法【もんぽう】仏法を聴いて、歓喜【かんぎ】大きな喜びの心が起こる。讃【さん】感動しほめる。乃至発一言【ないしほついちごん】一言発したい気持ちになる。
お釈迦様の有難い教えを聴いて、感動して、自ら他者に伝えたくて堪らなくなる気持ちになる。それが法話の基本姿である。嫌々話したりするのは法話ではない。

◎世間と仏法
倫理・道徳は普遍的であり時代によって変わる。世間の常識は仏法の非常識とも言われる。
法華経』の「寳塔偈」に「我即歓喜」【がそくかんぎ】とある。我とはお釈迦様で、『法華経』の教えを持つ者に対して歓喜される。世間から喜ばれることではなくて、お釈迦様が喜ばれることをすることが大事。世間と仏法とでは価値観が違う。
自分の価値観を取り払うことが大事。

日蓮聖人の著述『生死一大事血脈抄』に「異体同心」とあるが、体は異なるが心は同じ、日蓮聖人と同じ心構えでという日蓮門下、法華経信仰者における根本的な心構え。
また「水魚の思い」とは、魚は水がなければ生きられないように、水と魚は離れがたい密接な関係である。水が日蓮聖人であるなら、魚は私たちである。
いずれも決して我々凡僧と檀信徒の関係ではない。凡僧と檀信徒、また凡僧同士が心一つにしてもたいして大事は成せない。

◎仏教における宝
仏・法・僧を三宝【さんぼう】、三つの宝とされる。いずれも帰依される存在であるが、仏法を学ばない僧は宝とは言えない。
日蓮聖人は『諸法実相抄』に於いて「行学は信心より起こるべく候…」と述べておられるが、仏教の修行と学問を研鑽しようという心構えは、信心によって起こるし、信心がなくてはならない。この場合の学というのは、世間的な知識や理論ではなく戒定慧の三学。信心は法華経の信心、南無妙法蓮華経の題目受持である。


◎信心について

智慧の法門である「方便品」というお経は、信の法門でもあり、信心が先になければ理解出来ない教えである。

お釈迦様の悟った教えは甚だ深く難解であるから、仏弟子達では理解することが出来ない。故に説くことを止めようと三度も制止された。それに対し舎利弗は、聴衆を代表してお釈迦様に説法を三たびお願いしたところ、やっとお釈迦様から許可がおりたのである。それを三止三請重請許説【さんしさんしょう じゅうしょうこせつ】と言う。

その舎利弗は智慧第一と言われる程頭が良かったが、そんな舎利弗でさえ、智慧によってではなく信心によって成仏したと説かれる。(以信得入【いしんとくにゅう】)
「以信代慧」(いしんだいえ)とは、智慧もない末法の凡人はただ信心をもって智慧に変えることができることで、末法時代の人々は信によって得道、すなわち仏の悟りが得られ成仏できると日蓮聖人は解釈された。

龍樹の著作とされる『大智度論』には、「信」の定義として『無疑』とあり、「疑うことなし」という意味である。 「起信立行」目的とされる

◎おわりに

医師は医学に精通している師、薬剤師は薬に精通している師、法師と言われる僧侶は、法=仏法に精通している師でなければならない。
理想は低ければその行動は無責任であり、信念は低いと言わざるを得ない。


第ニ講につづく