お彼岸の中日 「子へ孫へと大切な信心の繋がり」

3月21日は春のお彼岸の中日、当山でも午後からいつもお世話になっているお寺さんご出仕の元、施餓鬼法要を行いました。

心配された天候でしたが、午後から回復し法要が終わる頃には、暖かな日差しに包まれていました。

天候にも恵まれ、参拝者も多く、中には子供さん連れの家族でのお参りも見られました。本当に有難いことです。

母の代わりに来ましたという方も数名いらっしゃり世代交代を感じました。しかしながら、仏事は子や孫へと相続するとが理想で、最も大切な信心の繋がりとなるのです。

幼い子供さんのお焼香姿、若い方のぎこちないお焼香の姿を目にすると、心が和みます。

 

来月4月6日は、当山で10時半より親子で参加できる「花まつりイベント」を開催させて頂きます。

お釈迦さまのご生誕についてのお話、甘茶・お焼香体験、うちわ太鼓体験などが出来ます!

お楽しみ袋のプレゼントもあるのでお気軽にいらして下さい!

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仏教から社会を読み説く「NZ クライストチャーチでのテロと命の話」

昨日、ニュージーランドクライストチャーチにあるモスク内で銃乱射のテロがあり、参拝者など49名が犠牲となった。まさか比較的治安の良いニュージーランドでテロがあるとは‥

 

私も訪れたことのある愛着ある都市だけに、悲しみ深く、亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りする。

 

テロがあった昨日、私はとある少年院を訪れ講師をさせて頂いていた。

 

今回のテーマは「命にありがとう」

これまで様々な人との関わり合い、助け合いの中で、有難うを伝えられたことも伝えられなかったこともあったと思う。輪になって発話してもらった。

 

お釈迦様がご生誕の際に述べられた「天上天下唯我独尊」独りだけが尊いという意味の他に、1人1人の命が尊いという意味がある。

 

「有難い」とは、有ることが難しい、滅多にない、得難いものを得るということ。

 

今ある命‥産まれて来ること自体が奇跡、この世にたった一つしかない命に有難うなのだ。

 

自分の命と同じく他者の命も尊い。お互いの命を大切にすることで、人々が優しくなれる、広まることで世界が平和になる。戦争やテロもなくなるはずだ。

「命にありがとう」

このような内容をお伝えした。

 

あれから8年‥祈り

東日本大震災から8年を迎えた昨日は、各地で多くの祈りが捧げられた。100人、1000人、10000人‥それぞれの想い、祈りがあった。

祈りは多い程、また強い程、より大きな想いとなって届くはず。

 

私は自坊の本堂で卒塔婆を建て、精一杯の祈りをさせて頂いたが、僧侶として祥月命日に被災地にいないことに、多少なりとも自責の念が心のどこかにあった。

 

昨年、2年ぶりに4月に宮城県女川町、石巻市気仙沼市岩手県陸前高田市、大船渡市を訪れたが、復興はかさ上げが終わり、箱物も建ち始めたことで、ハード事業に限っては最終段階を迎えているようだが、各地によって格差があるのが現状で、取り分け原発事故の影響が続く福島では遅れていると言わざるを得ない。あくまで行政が進める復興事業に対し、多くの住民が納得しているとは到底思えない。

 

被災三県の自治体首長へのある新聞社によるアンケートによると、取り組みが必要な課題は、最も多かったのは「心のケア」、次に「企業誘致や雇用創出」、3番目に「復興住宅などコミュニティの形成」とのこと。

 

いくら整備し建物など作った所で、住民の心の安穏がなければ「仏作って魂入れず」である。

報道が震災特集番組を組むこの時期だけではなく、常に関心を寄せ、忘れないでいることが肝要。東北だけの問題ではなく、日本全国民が考えなければならないこと。

 

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仏教から社会を読み説く「真摯に受け止めるとは?」

「真摯に受け止める」とは、真面目でひたむきな態度という意味である。

僧俗問わず仏教徒にとっては、お釈迦さまの教えを真摯に追い求める。正しい法に対するひたむきな信心は基本。

取り分け、僧侶にとっては、悩みや不安を抱いている人に寄り添い、耳を傾け、真摯な態度で接することが求められる。

 

さて、「真摯に受け止める」と日本のトップである首相が述べたなら、その重みは大きいはず。

沖縄では、普天間飛行場辺野古移設に関する県民投票で反対票が7割超、全投票資格者数の4分の1を上回ったことで、先日、玉城デニー知事が安倍総理のもとを訪れ、通知、埋め立て工事の反対を求めた。総理は「真摯に受け止める」と述べたが、政府の推進という方針は変わらないようで、本日、工事が再開された。沖縄県民の思いを鑑みると、真摯には到底感じられないし、軽すぎる言葉である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教から社会を読み説く「悪ふざけ?不適切動画の投稿」

「悪ふざけ」ネットのない時代からあったはずだが‥。

コンビニなどの従業員が、食材や商品などを使って不衛生極まりない不適切な動画を投稿、悪ふざけの域を超えていると言えよう。一度目にすると購買意欲が一気に薄れるような動画である。

こう言った投稿動画は、店側や会社にも大きな損害が生じる問題で、法的措置に訴えることも視野に入れているのも当然のことだと思う。

SNS は拡散などされることで社会に及ぼす影響は計り知れない。

注目を浴びたい。ウケ狙い。自己顕示欲からなのか?

 

仏教的に考察してみよう。

無明【むみょう】という、目が見えない状態を言う仏教用語がある。いや実際には目が見えないのではなくて、物事、事物の真相に明らかではないことを言う。つまり、物事を正しく見れない状態に陥っているのである。この無明が迷いの根本原因、煩悩の根源となる毒とされる。

一時の欲望、快楽を求めるばかりに、誤った行動に結び付いてしまうのだ。

 

このような悪ふざけばかりではない。

特にSNSをされている方は、(私も含めて)投稿する前に、一呼吸、冷静になって考えてみよう!

総じて言えることは、欲望に任せるのはなく、先ずは普段の行動から戒めないといけない。

 

 

 

 

仏教から社会を読み説く「桜田五輪担当大臣の発言」

桜田五輪担当大臣が、白血病を公表された競泳の池江選手について、「本当にがっかりしている」などと語ったことが問題になっている。

大臣は「治療に専念して、元気な姿を見せてほしい」と気遣う言葉も述べているので、全文を確認せず切り取ったと、マスコミに対しての批判もあるようだ。

それでも「がっかり」という言葉は、期待をしている方、国民を何がっかりさせてしまって、悪かったと思わせてしまう。

池江選手の立場を考えると、配慮のない言葉に違いない。

大変な病を患い闘おうとしている患者さんにとって、いくら元気な姿を見せて欲しいと言われた所で、少しでも嫌な感じと受け止められたらそれは使うべき言葉ではないということだと思う。

 

その前の麻生大臣の「子どもを産まなかったほうが問題なんじゃないか」との発言もそうだが、配慮のない失言を繰り返す人は、心の深層に染み込んでいるから、公の場であっても自然に言葉が出てくるのだと思う。

 

仏教では唯識という思想があって、怒り、嫉妬、絶望、失言などは全て心の深層部の仕業とされる。

心には意識できる表層部分だけでなく、その下に阿頼耶識【あらやしき】と言われる深い層があり、意識せずとも、これまでの経験によって形成されていくのだ。要するに、今までのその人の行為の積み重ねが阿頼耶識に付着し溜まっていくのである。(唯識では薫習【くんじゅう】するという)

 

特に大臣ともあろう人は、周りの環境を良くし、良い心がけ、言動を意識してもらいたいものだが‥

 

 

 

仏教から社会を読む説く「障害か障碍か?」

最近、「障害」を「障がい」とする表記を目にすることが多くなってきた。

障害は「害がある」「害を及ぼす」など否定的なイメージが強いということで、先日、宝塚市が市の公文書で、「障害」ではなく「障碍」という表記を使う方針を決めた。全国初とは意外だった。

 

一方でNHKが「害」を使い続けているのには、明確な理由があるようで、「障害」はその人自身に害があるのでなく、社会にある障害と向き合っている人たちと捉えているからだそうだ。

 

障碍の『碍』が、まだ常用漢字として採用されていないのも意外だった。

因みに仏教では障碍を「しょうげ」と読むが、「さとり」を得るにあたって、妨げ、障りとなる煩悩とされ、お釈迦様が成道される際にも、降魔と言われる誘惑、修行の妨げがあったと伝えられる。

 

何れにせよ、その方の捉え方によって大きく変わるデリケートな問題なので配慮が大切だと思う。