「大阪北部の地震から」過去の大災害から学ぶことは?
大阪北部で起こった震災から4日が経ちました。先ず持って亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、被災された方々に対しお見舞いを申し上げます。
今回の地震は浅い地下で起こった直下型地震地震で、大阪市北区、高槻市、茨木市、枚方市、箕面市など大阪府北部の方で震度6弱を観測しました。大きな揺れが起こった時、一瞬南海トラフ地震ではと思った方も少なくなかったでしょう。
地震発生の夕方、日蓮宗大阪市管区の災害対策支部会議が大阪市中央区谷町の宗務事務所であり、社会教化事業協会災害担当として出席させて頂きました。中には交通機関の事情により来れない方もいました。
被害状況の報告がありましたが、北区のご寺院さんなどで瓦の一部が損壊したり、本堂の瓔珞が落下したり、菩薩像が倒壊したり、水漏れがあったり、想像以上に被害は甚大でした。
連絡が中々取れない方もいたようで、電話連絡だけでなく、LINEやfacebookなどのSNSや防災無線など含めて、多岐にわたる手段で連絡が取れ、安否確認できる体制を取らなければならないという話がありました。スマホ使える方、そうでない方、色々な方に対応できるようにしなければなりませんし、必要であれば注意を払って直接訪れることもありだと思います。
大災害が起こってからでは遅いので、迅速に対応、動けるような組織作りが必要です。実際には決してマニュアル通りには行きませんが、落ち着いて行動できる道標となり、命を守る行動へと繋がるはずです。
阪神淡路大震災、中越地震、東日本大震災、熊本地震、近年起こった震災から様々な学びがあり、宗門としても社会教化事業協会を中心に防災、災害に関する研修会を行い、私自身も東北や熊本へ足を運び視察や活動をする中で、いつ起こるか分からない震災の恐ろしさを知りつつも、高を括ってしまっていたことに反省しています。
被害の大きさで当然報道の仕方や、大規模災害に指定、指定されないという違いがあります。
亡くなった方の数で、大難、小難が決まる訳では決してありません。1人1人全ての命が尊く重いのです。
連日報道されていますが、高槻市内で9歳の小学4年生の女の子(9歳)が通学路でプールのブロック塀が倒壊、下敷きになって亡くなりました。心より女の子のご冥福をお祈りします。
プールが外から覗き見されないように後から上部に積み上げたことで危険性が増大したとも言われています。耐震性安全性は一体?
地震大国日本で、それも多くの活断層、そして今後30年以内に南海トラフ地震が起こる確率70%のこのような大阪で、危険性をはらんだブロック塀が学校、通学路に存在すること自体が危機意識の欠如であり、関係者の責任が問われます。
1978年には宮城県沖地震が起こり、多くの方がブロック塀の下敷きになり亡くなった悲劇があったはずです。これは人災であります。
随筆家で理学博士でもあった明治11年生まれの寺田寅彦は、『天才と日本人』の中で、「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を十分に自覚して、平生から防御策を講じなければならないはずであるのに、それが一向にできていない主たる原因は、畢竟そういう天災がきわめて稀にしか起こらないで、人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようなことになるからであろう」と述べています。
まさに寺田寅彦の時代も現在も同じことが言え、天災から人災を繰り返していると言えます。
震災7年後の東北訪問記 最終話〜大船渡〜
東日本大震災発生からちょうど1年後の午後2時46分、私は僧侶の有志7名と海に向かってお題目を高らかに唱えた場所が大船渡市のとある海岸だった。そこの地名は分からないし、今もう一度行けと言われても辿り着けるがどうか分からない。
海からの風がきつく寒かったことと、打ち寄せる波が高かったことしか覚えていない。
それから、大船渡を訪れるのは今回で3度目で、いずれも大船渡プラザホテルに宿泊した。
しかし当ホテル、行ってみると元あった場所にないではないか‥。
2016年に移転し新装オープンしていたことを知らずに訪れた。元々あった場所で、当ホテルは津波による大変な被害を受けるも早期に復旧し再開。
そちらからの新装、移転だった。経営者始め、関係者方々のご尽力により、美しく快適なホテルとなっていた。
ホテル前には、BRT の駅があったので、陸前高田まで行くのに初めて利用した。(BRT とは津波による被害で大船渡線や気仙沼線など鉄道が運行不能となったことで、元々あった路線などを利用したバス高速輸送システム)
ホテルの周辺は、飲食店など立ち並ぶモールが出来ていた。夜はホテルの近くにあったAnother World Bar、KEIJIさんというバーに1人で入りお酒を嗜んだ。アットホームな雰囲気のBarだった。最後はマスターと名刺を交換してfacebookの友達になった。
翌日は午前中、少し時間があったので国の名勝及び天然記念物に指定されている三陸復興国立公園の「碁石海岸」を見学した。長年の海蝕による大断崖はまさに荘厳で絶景。三陸は碁石海岸のような美しく豊かな自然が沢山あり、景観を楽しむことができる。是非お薦めしたい。
東北を応援すると一概に言っても、震災当初とは支援の形が随分変わっているので、どうして良いか分からない方もいらっしゃるだろう。
人それぞれの応援の仕方があって当然だと思うが、先ずは忘れないこと、そして人との繋がりを大切にすること。出来れば現地を訪れ、現地の方と会い、観光や食事も楽しみ、東北を好きでいることが大切だと思う。
今回のブログでは復興している部分をいくつか報告したが、全体的には復興はまだまだ途上で課題が山積みであることをお伝えして、今回の訪問記を閉じさせて頂く。
終わり
震災7年後の東北訪問記〜陸前高田その2〜
陸前高田市は人口約2万人のうち、約1800名が犠牲となられた。10人に1人は亡くなった計算になる。親せきクラスの方を1人も亡くされていない方はいない程、岩手県最大級の被害を受けた市である。
私は震災からちょうど1年後3月11日に初めて当地を訪れた。「テレビの映像でしか見たことがなかった陸前高田、酷いという言葉しか出なかった」
あちこちに手向けらた花…市街地全体が津波に飲み込まれたことが見て分かった。
2012年10月に訪れた際に、支援者とのご縁でご紹介頂き、ログハウスの仮設図書館にオープン前だというのに見学させて頂いた。
北海道ブックシェアリングさんによって寄贈された温かい雰囲気の仮設図書館であった。
その際に副主幹の方から、陸前高田市立図書館は津波によって職員7名が犠牲になられたのだ。そして本図書館も壊滅的な被害に遭い、蔵書8万冊が流出されたことをお聞きした。
以来、ある時は宗門の僧侶と、有志の仲間達と、家族と‥。何度も訪れた仮設図書館。
2015年7月には大阪チャリティーボランティアチームを作り、シンガーソングライター泉拓人さんのライブを図書館ふらっと広場で応援ライブを開催させて頂いた。
昨年の夏に遂に陸前高田市立図書館が完成したとのお知らせのお手紙を前館長の菅野様より頂いた。
私にとっては2年ぶりの陸前高田市訪問。
嵩上げ地区中心部にできた大型複合商業施設アバッセ高田の中に近代的な図書館はあった。
新しい図書館を目にして感慨無量だった。
残念ながら月曜日ということで休館日‥次回訪れた際にはゆっくり見学させて頂きたいと思う。
近くには慰霊施設もあり、一読供養をさせて頂いた。
付近では行き交うダンプカー、作業員による復興作業が続けられていた。
嵩上げが終わり、建物が建設されていっても、人が集まらないと復興した街作りにはならない。課題は山積みのようだ。
震災7年後の東北訪問記〜陸前高田その1〜
「頑張ってね!」よりも「頑張ってるね!」と言われると癒されると仰るのは、陸前高田未来商店街の「鶴亀鮨」の店主 阿部和明さん。
震災前は市内の中心部で約30年も間、自宅兼店舗を構えておられたが‥3月11日未曾有の大津波が襲う。
「立ち上がるぞ」との思いから、現在の場所で再開され、息子さんや定員さんと共に笑顔いっぱい、美味しい鮨を握ってくださる。
頂いた名刺の裏には阿部さんの心温まるメッセージが綴られた感謝状が付いているのも、一緒に写真撮影する際に紙テープを用意してくださるのも(紙テープは「愛のナイアガラ」と言われるそうだ)、大将の人情味が大いにあふれる。それが有難いほど伝わってくる。
私が初めて訪れたのが2014年10月だった。ツアーの仲間数名とお昼の閉店時間過ぎに訪れたにもかかわらず、特別に開けて下さった。
それから毎年、陸前高田に来ると必ず行かせてもらっている。今回で4回目、大阪から一緒に行かせてもらったシンガーソングライターの泉拓人さんはギターを持ち、美味しい鮨を頂いた後に一曲演奏。
陸前高田市出身の千昌夫の『星影のワルツ』を披露され、他のお客さんも一緒に盛り上がった。
「大将また明日!」と言った通り、翌日も2日続けて鶴亀鮨さんに行かせて頂いた。
石巻市内から大船渡へ車を走らせ、宿泊の大船渡プラザホテルへ到着したのが午後6時過ぎ。
ホテル前にB R Tの駅があったので初めて利用したが、迂回する為1時間近くかかった。(BRT とは元々あった路線など利用したバス高速輸送システム)
鶴亀鮨さんでは、初めてお酒を飲んだ。地元の酒、三陸と酔仙はほんまに美味しかった。もちろん刺身、お鮨も‥
その日は大将と色々なお話をさせて頂いた。
帰りにタクシーをお願いしたら、なんと「送っていくよ」と大将自ら大船渡のホテルまで車で運転して送ってくださった。こちらが優しくして頂いて‥全く罰当たりな坊主やわ。笑
震災7年後の東北訪問記〜石巻市大川小学校〜
ゴールデンウィークも後半にさしかかって来た。間も無く、5月5日の端午の節句、こどもの日を迎える。行楽地は子供連れで賑わう。
しかしながら、大切な我が子を亡くされた親御さんにとっては、この日は喪失感は特別大きく感じられるのかも知れない。
東日本大震災の津波で児童と教職員合わせて84人が犠牲となった石巻市立大川小学校。
児童のご遺族が避難誘導をめぐり、市と県に損害賠償を求める控訴審判決が先日4月26日に出て、二審も勝訴となり、遺族側の訴えをほぼ全面的に受け入れ賠償が命じられた。「危機管理マニュアルに避難場所を明記するなどの対策を怠った」と学校や市の防災に不備があるとの判決理由であった。
現場に行かれた方はよく分かると思うが、学校のそばには普段生徒も登っていたという裏山があり、そこに避難すれば助かっていたと言われるだけに、教職員の判断ミスと防災マニュアルの不備との指摘は否めない。
また逆に、河口から4、5キロ離れた位置にある大川小学校、まさか北上川から遡上してくるとは思わなったとう判断もあろう。
あるご遺族が賠償が目的ではなく、市は真実を隠蔽
するので裁判で争うしかなかったという。
4月22日、大川小学校を訪れ、読経供養をさせて頂いた。私にとっては9回目の訪問だったが、7年という月日が流れたがあの日から時は止まったままだった。
亡くなられた生徒さん74名、教職員10名、平成23年3月11日、生きたい命、必死で生徒を守ろうとした命があったことを忘れてはならない。
この日も北上川から吹き荒ぶ風はきつかった。
合掌‥
震災7年後の東北訪問記〜女川町〜
宮城県の東端に位置する女川町は、女川漁港、女川原発で有名だ。
人口比率で見ると、亡くなられた方と不明者の方が一番多かったのが女川町。
3年前に女川町「希望の鐘 復興商店街」を訪問した際に、引き寄せられるかのように入ったお店が佐々木釣具店さんだった。私は釣りをしないので、釣具には興味がないが展示してある絵画に目を奪われた。
店主の女性とお話しさせて頂くと、ご主人は震災で亡くなられた画家の貝廣さんは、素晴らしい作品を世に残された。また、地元で仏教青年会を立ち上げられたり、詩人の高村光太郎さんに傾倒され「女川光太郎の会」を作られイベントをされたり、数々の功績を残された方だった。
今は復興商店街は閉鎖され、佐々木釣具店さんも元々あった女川港近くに移られ、この日は新しいお店で再会となった。
コーヒーを頂きながら色々なお話をさせて頂きました。亡くなられた貝廣さんがお釈迦様の永遠の命が説かれる『法華経』の「如来寿量品」をよく見聞しておられたとお聞きした。
女川港近くに新しくシーパルピア女川というテナント型の商業施設ができていた。海が見える公園のまちをモチーフに斬新的なデザインだった。日曜日ということもあり、家族連れも多く活気があった。我々は佐々木さんにおススメ頂いた「きらら女川」でランチをした。ボリュームもあり美味しかった。
人々が安心して暮らせるよう、若者が中心となって町民や有識者の意見を積極的に取り入れ、計画的な復興計画の元「港町おながわ」の町作りデザインが形となって現れていた。
震災7年後の東北訪問記〜気仙沼 その2〜
気仙沼には美しい場所が多い。
今回も宮城県の天然記念物、更には三陸復興国立公園に指摘されている岩井崎という岬を訪れた。
海に微細物が誕生した頃のはるか古代から海水により、長い年月をかけて浸食された石灰岩が広がる。岬の先には岩孔があり、そこに波が打ち寄せるたびに潮を吹き上げることで潮吹岩と言われる。
太平洋の遥か先を睨む龍の姿をした松があった。東日本大震災の大津波により、多くの松が流される中で、一部分だけが奇跡的に龍の形になって残った。その後、保存するため加工が施され現在存在する。他に使い道があるのに龍の松に大金を使って良いのかと反対意見も実際あったようだ。
反対意見と言えば、巨大防潮堤の建設問題がある。
この岩井崎付近も一昨年から景観がすっかり変わっていたので、少し寂しさを感じた。こんな素晴らしい景観が防潮堤によって損なわれるのは悲しいこと。
震災前は美しい白浜の海水浴があった小泉海岸、小泉地区の巨大防潮堤の建設に関して住民の反対運動がおこっている。高台移転をされる場所で、海が見えない高い壁は本当に必要なものか?
利益優先ではなく、住民の想いが叶う形での街づくりを望みたい。美しい気仙沼を守って頂きたいものだ。美しい場所には人は集まるから。