震災7年後の東北訪問記〜女川町〜
宮城県の東端に位置する女川町は、女川漁港、女川原発で有名だ。
人口比率で見ると、亡くなられた方と不明者の方が一番多かったのが女川町。
3年前に女川町「希望の鐘 復興商店街」を訪問した際に、引き寄せられるかのように入ったお店が佐々木釣具店さんだった。私は釣りをしないので、釣具には興味がないが展示してある絵画に目を奪われた。
店主の女性とお話しさせて頂くと、ご主人は震災で亡くなられた画家の貝廣さんは、素晴らしい作品を世に残された。また、地元で仏教青年会を立ち上げられたり、詩人の高村光太郎さんに傾倒され「女川光太郎の会」を作られイベントをされたり、数々の功績を残された方だった。
今は復興商店街は閉鎖され、佐々木釣具店さんも元々あった女川港近くに移られ、この日は新しいお店で再会となった。
コーヒーを頂きながら色々なお話をさせて頂きました。亡くなられた貝廣さんがお釈迦様の永遠の命が説かれる『法華経』の「如来寿量品」をよく見聞しておられたとお聞きした。
女川港近くに新しくシーパルピア女川というテナント型の商業施設ができていた。海が見える公園のまちをモチーフに斬新的なデザインだった。日曜日ということもあり、家族連れも多く活気があった。我々は佐々木さんにおススメ頂いた「きらら女川」でランチをした。ボリュームもあり美味しかった。
人々が安心して暮らせるよう、若者が中心となって町民や有識者の意見を積極的に取り入れ、計画的な復興計画の元「港町おながわ」の町作りデザインが形となって現れていた。
震災7年後の東北訪問記〜気仙沼 その2〜
気仙沼には美しい場所が多い。
今回も宮城県の天然記念物、更には三陸復興国立公園に指摘されている岩井崎という岬を訪れた。
海に微細物が誕生した頃のはるか古代から海水により、長い年月をかけて浸食された石灰岩が広がる。岬の先には岩孔があり、そこに波が打ち寄せるたびに潮を吹き上げることで潮吹岩と言われる。
太平洋の遥か先を睨む龍の姿をした松があった。東日本大震災の大津波により、多くの松が流される中で、一部分だけが奇跡的に龍の形になって残った。その後、保存するため加工が施され現在存在する。他に使い道があるのに龍の松に大金を使って良いのかと反対意見も実際あったようだ。
反対意見と言えば、巨大防潮堤の建設問題がある。
この岩井崎付近も一昨年から景観がすっかり変わっていたので、少し寂しさを感じた。こんな素晴らしい景観が防潮堤によって損なわれるのは悲しいこと。
震災前は美しい白浜の海水浴があった小泉海岸、小泉地区の巨大防潮堤の建設に関して住民の反対運動がおこっている。高台移転をされる場所で、海が見えない高い壁は本当に必要なものか?
利益優先ではなく、住民の想いが叶う形での街づくりを望みたい。美しい気仙沼を守って頂きたいものだ。美しい場所には人は集まるから。
震災7年後の東北訪問記 〜気仙沼その1〜
昨年は東日本大震災が起こって以降初めて被災地に足を運べなかった。なので、震災から7年目を迎えた今年は是非とも行きたいと思っていた。
何をしに行くでもない。行きたい場所に行き、会いたい人に会い、手を合わせたい場所で祈り‥。実に気ままな旅かも知れないが、震災から7年経った今、それで良いのかなと思う。
離れていても想いを馳せること、お祈りすることもすごく大切だが、現地に足を運ぶことがやはり一番だと思う。
初日は、仙台空港から宮城県の北東端にある気仙沼へレンタカーを進めた。
気仙沼には、4年前にご縁があって知り合った方がいる。伊藤雄一郎さんという方で、津波でお住まいを失い、大切なご家族を亡くされた。店舗があったビルは辛うじて残ったが、行政の方針で取り壊された。
流されたご自宅の跡地に『グラウンドゼロ~風の広場』を作られた。人が集まり、時には祈り、歌い、飲み、語れる場所だった。たが、そちらも区画整理工事で撤去になった。
今回はそんな伊藤さんとの約2年ぶりの再会。
気仙沼には美しい自然と海がある。星空に一番近い港町と言われるくらいに美しい星空も見られる。
気仙沼の良さ、自然を生かし多くの方に楽しんでもらいたいという思いから宿泊施設「森のコテージ」をプロデュースされ、管理されている。
国内のみならず海外の方も沢山利用されている。
今回初めて自然に囲まれたコテージを訪れ、伊藤さんと約2年ぶりの再会だった。
今回もご一緒させて頂いた大阪のシンガーソングライター泉拓人さんの気仙沼を想い書かれた『スターチャイルド』のアカペラでの演奏‥。
夜になり、地元の方のあまり訪れないような星空が綺麗なスポットに案内して頂いた。
変わらぬ明るい笑顔、その夜、一緒に目にした気仙沼の美しい星空は一生忘れないだろう。
つづく
祖母の三回忌に思い出す‥
今日は祖母の三回忌法要がお寺で行われました。
祖母には、幼少の頃より親のように育ててもらい、可愛がってくれた僕にとって恩ある人でした。
また、私の祖父でもある本照寺第28世 日亮上人の妻として、戦前より谷町にあった本照寺を守りました。夫である住職が49才で遷化したため、得度し、回向参りをしお寺を支えました。
戦時中に大阪空襲で、祖母が避難していた防空壕の隣に爆弾が落とされ、隣の方は亡くなりましたが、祖母は奇跡的に助かったとう話を生前に聞きました。
その時、お寺に祀られていた妙見さんを空襲から守るために背負って防空壕に避難していたそうです。
祖母は、きっと妙見さんに守って頂いたのではないでしょうか。
当寺ではそのような戦火を逃れた有難い妙見さんをお祀りし、今も日々御給仕させて頂いていますが、その際にいつも祖母を思い出します。今日は三回忌に合わせて祖母の思い出を綴りました。合掌
光要山 本照寺HP
http://honshoji.crayonsite.com
星祭りと妙見さん
2月4日は、当山で星祭りの行事があり、寒さ厳しい中を多くの檀信徒方々が参詣されました。
星祭りは、節分を中心に各寺院で行われますが、一年の無事を祈る法会で星供養会とも言われます。
元々は中国の道教で難を払う祭儀で、平安時代に真言密教を中心にお寺でも行われるようになりました。また宮中の行事にも取り入れられていたそうです。
星祭りでの祈りの対象ですが、関西中心に妙見さんと親しまれている妙見菩薩が祀られることが多いようです。しかしご本尊、ご本仏が中心にあっての妙見菩薩であることをお知りおきください。
妙見菩薩は、北極星、北斗七星が 神格化され、北辰妙見菩薩や妙見尊星王とも呼ばれる天界の善神で、海上守護や武運長久など、様々な守護神として広く崇拝されてきました。
また眼病平癒の神として有名な理由は、「妙見」とは妙なる見識、見極める力であり、優れた視力に加え、善悪や真理を見通す能力が備わっているからであります。参拝者の信心の浅い深いも、妙見さんはすぐに見通されることでしょう!
先代住職の遷化から丸3年
早いもので先代住職が遷化して今日で丸3年の祥月命日、お逮夜の昨夜は、法縁講があり、会員のお寺さんが集い丁重なるご読経、ご回向、お焼香を賜りました。有難い限りです。
後席は150年続く八尾老舗の料亭「山徳」さんに移動して、献杯、食事を美味しく頂きました。
遷化の遷とは移動する、移る、離れて別の場所に移動するという意味。娑婆世界における教化を終えて、他の国土世界で教化をすることが遷化です。
よって僧侶に対しては、亡くなってもご冥福は祈らないのです。安らかに眠っている暇はありませんからね。
先代も今頃は、他の世界で布教し、救済活動をしておられらことでしょう。