初めて小豆島に行ってきた!

正月3日の早朝5時半、外はまだ夜明け前、暗闇の中自家用車に乗り込み、妻の実家がある広島県福山へ大阪から向かった。

 

午前中に到着し、その日のうちに高松に移動した。
愛犬のチワワと一緒だったので、ペット可のホテルに宿泊。


ペット連れで更に大変なのが食事の場所、高松市内の片原町商店街で見つけた「酒と焼鳥は文化」という看板が目に付いた居酒屋さん、外席があったので事情を話すと快くOK、レトロな雰囲気の漂う安くて美味いアットホームな感じの店だった。

 

翌日は朝から高松市内観光、愛犬も一緒だったので高松城跡庭園には入れず、源平による激戦が繰り広げられた屋島の合戦古戦場跡、対岸から臨める屋島を見ながら、当時の両軍の激しい戦闘がこの地で繰り広げられたと思うと身震いがする。

屋島山上へドライブ!高松市内も一望でき見事な眺望であった。

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行列ができる有名な讃岐うどん屋「一福」さんで昼食、その後フェリーに乗り小豆島へ。

実は小豆島を訪れるのは初めてで、前夜にフェリー利用が便利だと分かり行くことにした。

 

小豆島は香川県に属し、瀬戸内海では淡路島に次ぐ2番目の大きさ、日本の島の中では19番目の大きさだそうだ。オーリブ園や醤油記念館、二十四の瞳映画村などで有名。初めて行ったが思ったより広く2時間くらいの滞在ではとても周りきれない。その中でもオリーブ園に立ち寄った。日本でのオリーブ栽培の始まりは小豆島と言われるが、沢山のオリーブの木が立ち並んでいた。

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昭和天皇が立ち寄られた際に、種子を播かれ育ったという貴重なオリーブの木もあり、目にでき感無量。園内にはレストランやショップもある。

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 小豆島は醤油も有名で通りかかった金大醤油さんで万能のダシ醤油とガーリック油を買って帰った。

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帰りは小豆島福田港からフェリーで姫路へ。姫路から車で大阪に帰って来た。仕事の都合で1泊2日の束の間の休日だったが、新たな発見があった。
今度は「二十四の瞳」を映画か小説で読んでゆっくり当地を訪れたいと思う。

 

平成29年 丁酉 謹賀新年 〜新しい一歩へ〜

遅れ馳せながら、明けましておめでとうございます。

お世話になっている方、拙いブログを読んで頂いている方、全ての有縁の方々に心より感謝申し上げます。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

 

皆様はどんなお正月を過ごされましたか?

うちの寺には除夜の鐘がないとはいえ、年末から2日くらいにかけては檀家さんがお参りに来られたり、それなりに忙しく、漸く3日に妻の実家がある広島県福山へ‥。帰りに高松・小豆島に小旅行に出かけました。旅の日記は明日にでも書かせて頂こうと思います。

 

今年は丁酉(ひのととり)で、60年に1回やってくる組み合わせの年です。

丁は「火の弟」とも書かれ、火にまつわる年で人が火を起こすという意味があるそうです。

今年、新しい一歩を踏み出す人、チャレンジする人も多いのではないでしょうか。

 

躊躇している人は、勇気を持って羽ばたくことで、新たな発見や収穫があるかも知れませんね。
酉年だけに何かに懸命に取り組む年にしたいですね(笑)

 

仏教的には「信心の火」を起こす人が増えることを望みます。
ただし、風で簡単に消えるような信心ではなく、嵐が来てもずっと燃え続けるような堅固な信心であります。とにかく世の中全体がプラスに転じて欲しいものです!

 

 

町内自治会の夜警に参加!

本日は町内自治会の夜警最終日(3日目)、「火の用心」をしました。

微力ながら私、自治会の副会長と班長をしておりまして、今夜は昨日に引き続き参加させて頂きました。

 

本日は八尾市議会議員の大道あきら先生も夜警に参加され、終了後は親睦会もあり、先生から八尾市についての貴重なお話を拝聴しました。

おでんも美味しく、お酒を酌み交わしながらの有意義な時間となりました。

 

ご近所付き合いは大切!先ずは顔を名前を覚えることからで、いざという時の防災にも繋がるのです。

 

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 妻と愛犬も同伴しました(笑)

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安倍総理の真珠湾訪問と慰霊の意味を考える

昨日、安倍総理真珠湾のアリゾナ記念館を慰霊のために訪問し、オバマ大統領と共に献花をした。

 

慰霊とは亡き御霊に想いを捧げ、安らかなることを祈ること。と同時に亡き方々の生きた証を知ることも大切なこと。それはその方が生きた歴史を学び知ることでもある。

 

日本海軍による真珠湾攻撃で、2400名もの方が亡くなり、八隻もの戦艦が壊滅し、アメリカにとっては壊滅的な被害であったことは紛れも無い事実であった。

 

今年の5月には、オバマ大統領が広島の原爆ドームを訪問、感動的なスピーチをされ、被爆者の方の手を握り抱き寄せた。

今回はお返しとばかりに、ハワイ真珠湾に建てられたアリゾナ記念館への訪問、慰霊であったが賛否両論はあろう。

 

文学的な表現を取り入れた臨場感あるスピーチと言い、式典参列者との握手に抱擁と言い、対比すると共通点は多いように見えるが、歴史という観点から捉えた場合は、真珠湾攻撃と原爆投下を同じ土俵で対比はできない。

 

太平洋戦争の始まりと終わりという一言では語れないし、戦死者の数でも語れない。

絶対に考慮すべきなのは、民間人の犠牲か軍人か、そして核兵器が使用されたか否かである。

それには歴史的な背景を知ることが大切になってくる。

 

安倍総理はスピーチで「和解・寛容」という言葉を使われた。

アメリカでは来月トランプ大統領が誕生するが、排外主義は寛容とは相反するが‥。

 

他にもTPPの問題や沖縄の基地移設問題など日米が抱える問題は多い。

戦争と言えばアジアとの問題改善も決して置き去りにしてはいけない。

 

また、集団的自衛権閣議決定など、安倍政権の方向性を鑑みると、昨日述べられた「不戦の誓いを貫き平和国家」であり続けることができるのかは疑問符が付く。

シベリア抑留記を読んで

今日は、檀家さんの一周忌法要がお寺であり、多くの参列者が集まりお焼香をされた。亡き方はシベリア抑留を体験され、壮絶な人生を全うされた方だった。

 

シベリア抑留と言えば、日本とロシアには戦後71年を経ても平和条約がないという異常な状態を打破すべく昨日、一昨日は日露首脳会談が行われた。

 

歴史問題を克服する一歩だったとも言えるが、国民が期待していた北方領土の帰属問題に進展はなかった。したたかなロシアとの交渉は一筋縄ではいかない。


ちょうど先日『凍りの掌』〜シベリア抑留記〜という漫画を読んだ所だったから、余計に日露問題に関心がいく。

 

本書の著者であるおざわゆきさんの実父の体験談を元にリアルに描かれおり、戦争によって生み出された悲しみの歴史を学ばせてもらった。

 

ご存知、ソ連軍が日ソ中立条約を無視し、突如として侵攻してきたのが1945年8月のこと。

 

停戦命令により丸腰となった日本軍部隊が、行き先も告げられないまま連れて行かれた先はシベリアであった。彼らの多くはこれで帰国の途につけると思っていたがまさかであった。

 

一枚のパンとスープだけの一日二食で、マイナス30度以上なら外に出され、過酷な労働を強いられた地獄のような生活が続く。

 

極寒と栄養不足の状態での肉体労働により、多くの人が亡くなり、遺体は凍った大地に埋葬された。

 

故郷の地を踏むことなく遠い酷寒の地で命を落とした仲間の想いと共に帰還者はそれぞれの地で戦後を生き抜いたのだった。

 

終戦後、シベリア抑留者は捕虜とみなされず補償金が出なかったりと、理不尽なことが本書を読めばよく分かる。

 

本日の法事の方も、抑留に関してあまり多くを語られなかったとご遺族が仰っていたが、口を閉ざしてておられた抑留者も多くいたのも事実だろう。

 

過去の歴史から考えると日露問題は根深く、課題は山積みされている。

 

 

特別な日「12月10日」

あれから月日が流れた。もう何度目の12月10日になるだろうか?

この日が私にとって特別な日であるのには理由がある。
奇しくも私の誕生日に起こったことであるが、これも意味があったのだと思う。

ては、これから21年前にタイムスリップしよう。

 

当時私は大学院生で、修士論文のテーマもなかなか決まらないまま悶々としていた。
その日、大学の仏教学研究所で仲間たちと会話の輪の中に私はいた。
同級生だったS君が私に向かっていきなり発した言葉が、忘れられない助言となるとは知る由もなかった。
「まだテーマが決まってないなら、この『法華論』はいいぞ!漢訳ニ漢だけど充分論文になるよ」

S君は大学院を首席で合格し、将来を有望視されていた学生だった。
授業が終わってしばしば飲みに行った仲で、サザンや文学が好きで私と趣味も合った。
私は疑う余地もなく、アドバイスをもらった日以来研究に没頭し、翌年にはある程度納得のいく修士論文が完成した。まさに彼のお蔭である。

でも、私はお礼の一言も彼に言うことが出来なかった…。
S君は、私に助言をした後数カ月後に急逝したのだった。喘息による重い発作が死因だった。
命日は12月10日‥。

「信じられない。まさかあのSが…無念だろう、悔しいだろう、君は一体何のために頑張ってきたのだろうか?いや…。来年は俺はもう誰にも頼れないのか…」
当時の私の手記にはこのように記されていた。

鎌倉市のある寺で行われたお通夜・葬儀には、僧侶の資格を取ったばかりの半人前の私も役僧として出仕し、懸命にお経を唱えた。

12月11日、お通夜が終わって品川区の一人暮らしのワンルームマンションに帰宅し、深夜に入浴している時に不思議な現象が起こったのだ。
「ガチャン」
玄関の鉄のドアが開く音がし、誰もいないはずのバスルームの外でドンドンと足音が聞こえたと思ったら、風もないのにユニットバスのカーテンが私に纏わり付いた。
S君が神奈川からわざわざ家に来てくれたのに違いない。

その後、卒業し大阪へ帰った年にご回向をさせてもらいに彼の家に伺ったところ、最寄りの駅まで迎えに来てくれたお父さんの電話の声が全くS君の声そのものであった。親子とは言え全く同じ声にドキッとした。

そんな彼との思い出… 。今朝のお勤めで思い出しながら供養を捧げた。