シベリア抑留記を読んで
今日は、檀家さんの一周忌法要がお寺であり、多くの参列者が集まりお焼香をされた。亡き方はシベリア抑留を体験され、壮絶な人生を全うされた方だった。
シベリア抑留と言えば、日本とロシアには戦後71年を経ても平和条約がないという異常な状態を打破すべく昨日、一昨日は日露首脳会談が行われた。
歴史問題を克服する一歩だったとも言えるが、国民が期待していた北方領土の帰属問題に進展はなかった。したたかなロシアとの交渉は一筋縄ではいかない。
ちょうど先日『凍りの掌』〜シベリア抑留記〜という漫画を読んだ所だったから、余計に日露問題に関心がいく。
本書の著者であるおざわゆきさんの実父の体験談を元にリアルに描かれおり、戦争によって生み出された悲しみの歴史を学ばせてもらった。
ご存知、ソ連軍が日ソ中立条約を無視し、突如として侵攻してきたのが1945年8月のこと。
停戦命令により丸腰となった日本軍部隊が、行き先も告げられないまま連れて行かれた先はシベリアであった。彼らの多くはこれで帰国の途につけると思っていたがまさかであった。
一枚のパンとスープだけの一日二食で、マイナス30度以上なら外に出され、過酷な労働を強いられた地獄のような生活が続く。
極寒と栄養不足の状態での肉体労働により、多くの人が亡くなり、遺体は凍った大地に埋葬された。
故郷の地を踏むことなく遠い酷寒の地で命を落とした仲間の想いと共に帰還者はそれぞれの地で戦後を生き抜いたのだった。
終戦後、シベリア抑留者は捕虜とみなされず補償金が出なかったりと、理不尽なことが本書を読めばよく分かる。
本日の法事の方も、抑留に関してあまり多くを語られなかったとご遺族が仰っていたが、口を閉ざしてておられた抑留者も多くいたのも事実だろう。
過去の歴史から考えると日露問題は根深く、課題は山積みされている。
特別な日「12月10日」
あれから月日が流れた。もう何度目の12月10日になるだろうか?
この日が私にとって特別な日であるのには理由がある。
奇しくも私の誕生日に起こったことであるが、これも意味があったのだと思う。
ては、これから21年前にタイムスリップしよう。
当時私は大学院生で、修士論文のテーマもなかなか決まらないまま悶々としていた。
その日、大学の仏教学研究所で仲間たちと会話の輪の中に私はいた。
同級生だったS君が私に向かっていきなり発した言葉が、忘れられない助言となるとは知る由もなかった。
「まだテーマが決まってないなら、この『法華論』はいいぞ!漢訳ニ漢だけど充分論文になるよ」
S君は大学院を首席で合格し、将来を有望視されていた学生だった。
授業が終わってしばしば飲みに行った仲で、サザンや文学が好きで私と趣味も合った。
私は疑う余地もなく、アドバイスをもらった日以来研究に没頭し、翌年にはある程度納得のいく修士論文が完成した。まさに彼のお蔭である。
でも、私はお礼の一言も彼に言うことが出来なかった…。
S君は、私に助言をした後数カ月後に急逝したのだった。喘息による重い発作が死因だった。
命日は12月10日‥。
「信じられない。まさかあのSが…無念だろう、悔しいだろう、君は一体何のために頑張ってきたのだろうか?いや…。来年は俺はもう誰にも頼れないのか…」
当時の私の手記にはこのように記されていた。
鎌倉市のある寺で行われたお通夜・葬儀には、僧侶の資格を取ったばかりの半人前の私も役僧として出仕し、懸命にお経を唱えた。
12月11日、お通夜が終わって品川区の一人暮らしのワンルームマンションに帰宅し、深夜に入浴している時に不思議な現象が起こったのだ。
「ガチャン」
玄関の鉄のドアが開く音がし、誰もいないはずのバスルームの外でドンドンと足音が聞こえたと思ったら、風もないのにユニットバスのカーテンが私に纏わり付いた。
S君が神奈川からわざわざ家に来てくれたのに違いない。
その後、卒業し大阪へ帰った年にご回向をさせてもらいに彼の家に伺ったところ、最寄りの駅まで迎えに来てくれたお父さんの電話の声が全くS君の声そのものであった。親子とは言え全く同じ声にドキッとした。
そんな彼との思い出… 。今朝のお勤めで思い出しながら供養を捧げた。
南森町で英語教室開講!〓英会話サークルMENGで幕開け〓
ついに「英語教室みたむら」が開講しました。ご縁あって大阪市北区は南森町、天神橋筋商店街にある立地の良い教室で妻が英語教室を始めることになりました。
11月16日夜7時から第1回英会話サークルMENG(エミング)で幕が開かれました。
サークル名、MENGのMは南森町のMとみたむらのM、ENGはEnglishのENGです!
英会話サークルと言えば、これまでお寺で2010年から通算150回近く続けてこれましたし、また梅田や難波でも一昨年まで定期的に開催してきました。
結婚後、英会話や日本語教育を多少なりとも学んできた私も、微力ながらサークルのアシスタントやお寺ではMCなど務めさせて頂けるようになりました。
昨日はお陰様で満席の中、私も南森町教室でのアシスタントデビューとなりました。
自己紹介に始まり、英語で早口言葉、describeゲームなどで盛り上がり、あっと言う間の1時間でした。私もロールプレイイングゲームを担当させて頂き、皆さんに名役者になって頂きました(笑)。
やはり楽しみながら学ぶことは大切なことですね。
大人になってから始める英語学習、文化的なことなど知識も増え、コミュニケーション能力も確実にアップしますよ!
佐賀・熊本旅行記 〜最終日 熊本〜
私にとっては約3カ月ぶりの熊本たった。熊本と言えば4月に最大震度7という巨大な地震が2度も起こり、50人もの方が亡くなられた。
まだ、5カ月しか経っていないのに報道はほとんどされなくなった。
熊本に行ってお金を落とすことも支援の1つである。先ずは関心を寄せ、応援し続けることが大切なこと。
5月に訪れた際には、熊本市内のホテルも被害を被り営業されていなかったり、営業していても満室だったりで、何とか一室だけ空いていたビジネスホテルのトリプル部屋に泊まることができた。
今回は熊本駅前のニューオータニ熊本だったが、復旧工事も大体終わり、8月1日から営業再開したと仰っていた。従業員のホスピタリティがこちらに伝わってきた。
その夜は、5月に行った際に「また必ず来ます」と店員さんに約束した肥後料理「肥後の陣屋」さんを探して行った。その店員さんも「頑張るしかないですね」と熊本弁で話されたのが印象深かった。最後に頂いた名物熊本城瓦そばは美味しかった。
翌日は最も被害の酷かった益城町を再訪。震災から4カ月が過ぎた今も手付かずの倒壊した建物が軒を連ねる。あの時の風景と何も変わっていない‥。
被災した日蓮宗 道安寺さんの竹本住職と再会しお話。被災した堂内、庫裡のある建物にはもう住めない。御本尊を階下に移し「来れる方に集まって頂き、何とかお盆の施餓鬼法要ができました」というお話。前を向いて頑張っておられるお姿に感銘を受けた。
見渡す限り、倒壊した建物は解体が全くと言ってよいほど進んでいない。県内だけの解体業者だけではとても追いつかない。行政からの補助金の問題など山積みだ。
正直言って、東京オリンピックどころではないことが現地に行くとよく分かる。
その後は、北区の植木町にある田原坂公園に向かった。明治10年に起こった国内最後の内戦、西南戦争最大の激戦地が熊本にある事をご存知だろうか?今回の地震で石垣が崩れた熊本城も鎮台が置かれるなど戦いの舞台であった。
昨年リューニアルオーブンした西南戦争資料館は、残念ながら5時を過ぎてしまっていたので入館出来なかったが、また今度ゆっくり見学したいと思う。
こう見えて歴史好きの私、20代の頃に読んだ司馬遼太郎さんの西南戦争が描かれた『飛ぶが如く』を今再読している。西南戦争戦没者慰霊碑前で合掌し、熊本を後にした。
熊本には色々な思いが込められた場所が沢山ある。
他にも肥後の食べ物は美味しいし、お酒も美味しい!くまモンに会いに行き、くまモングッズを買うの良し!
おわり
佐賀・熊本旅行記 〜2日目 嬉野温泉〜
別府温泉や湯布院温泉に比べると幾分大人しそうなイメージがある嬉野温泉だが、日本三大美肌の湯に数えられる名湯。ぬめり感のあるお湯が、みずみずしい肌を甦らしてくれそうなお湯だった。
夕食には、嬉野温泉湯豆腐も頂き、地元の焼酎を嗜みながらリラックし、頑張ったお盆の疲れを癒すことができた。
翌日は嬉野茶を買い求めに、スマホで調べた周辺のお店を回った。因みに嬉野茶はうちの妻が大好きなお茶の1つでもある。
中心部を散策していると、足湯と足蒸ができる所があり試したが、リフレクソロジーをしてもらった後のように血行が良くなり足が軽く感じた。
ところで、嬉野温泉には「なまず様」が祀られている神社があることを聞いており、気になるので寄ってみた。
そこは、豊玉姫神社と言い、海の神の娘である豊玉姫の使いとされるのが、嬉野に古くから住んでいるなまずだそうだ。なんと美肌の神様だとか‥。
このような嬉野温泉は女性がにとって嬉しそうな温泉なのだ‥(笑)
昼食は地元のお茶屋さんの美人定員さんも行かれると言っておられた「ぎゅう丸」さんに行った!
人気のパイ包みのスープもハンバーグも美味しかった。
夕方にはレンタカーで熊本方面に向かっていた。
つづく
佐賀・熊本旅行記 〜初日 有田町〜
8月29日から遅い夏休みを取り、佐賀と熊本方面に行って来た。台風10号がちょうど東北地方へと進路をとっている時だった。
博多からレンタカーを借りて周遊した。
先ず訪れたのは、佐賀県西部に位置する有田焼で有名な有田町。ちょうど今年は有田焼創業400年を迎え、イベントなども開催されている。
有田町には先代住職の代からお付き合いがあり、自坊にもよく来られる陶樹庵さん(矢持庵主)を訪れた。
数多く美しい焼き物が並ぶ店内で時間を過ごした後は矢持庵主自ら車で先導しながら町中をご案内頂いた。
15代にわたって受け継がれる伝統ある柿右衛門窯を見学した。国内のみならず世界中を魅了している柿右衛門様式というわれる暖色系の色彩で描かれ、乳白色の余白があるのが特徴である。まさに日本が誇る伝統工芸である。
ドイツのマイセンに代表されるように17世紀から18世紀にかけてヨーロッパに多大な影響を与えたのが伊万里や柿右衛門様式の磁器であったそうだ。
続いて日本で初めて磁器を焼成した有田焼の原料となる陶石の発掘場所である泉山陶石を訪問。
1616年に陶工だった李参平によって発見され採石場国の史跡にも指定されている。
限られた時間であったが、貴重な時間となった。
旅というのは、様々な発見や学びがある。
その夜は有田から車で20、30分の距離にある嬉野温泉でお盆の疲れを癒した。
つづく