東北の旅2016〜会いたい仲間に会いに行く〜【福島原発被災地編】その3

福島第一原発20キロ圏内、帰還困難区域が大きく広がる浪江町‥。歌手の長渕剛さんも震災後『カモメ』という曲でこの町のことを書かれていた。大阪でのライブでその曲を聴いた際には未だ見ぬ浪江町の情景が現われ涙が溢れ出した。

 

ガイドさんに浪江町の農村部の奥まった場所にある一軒家を案内された。
草木が伸び放題に生い茂る庭には、駐められたままの一台のK4車、家屋に目をやると洗濯物や下駄箱がそのまま残されていた。ガイドさんの説明によると、イノシシや他の動物が家の中に侵入して食べ物をあさり、毛布を引っ張り出した様子がうかがえるとのことだ。

 


ここに住まれていたご家族は、どこかで新たな生活を送っておられるのだろうか?
そのような震災直後に放置されたままの家は他にも沢山存在する。

 

その後、JR常磐線の浪江駅に向かった。静まり返った駅周辺、事故から5年以上が過ぎた今でも、そこは時間が止まったまま。よくゴーストタウンと表現されることがあるが、そのような一言では表現仕切れないし、私は率直に適切な表現ではないと感じた。

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「海と緑にふれあうまち」という駅前の看板にあるように、町民始め多くの方に親しまれ愛されてきた素晴らしい町なのに、あの事故さえなければと思う。

 

タクシーが来ることのないタクシー乗り場は寂しげであった。駐輪場には最近まで自転車が置き去りにされていたそうだが、撤去されたようですと仰っていた。 

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近くの新聞店の前を車でゆっくり通った。配達することが出来なかった3月12日から14日までの新聞が山積みにされていたとのこと。


誰もいない酒屋さん、散髪屋さん、銀行、病院などが軒を並べる。震災前の人々が行き交う光景が容易に想像出来る。中には新築のような家もあった。

 

 

浪江駅の近くにモニタリングポストが設置されていた。やはり放射線の量は気なるところだ。

 

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原発事故の後は、シーベルトやベクレルについての解説が御用学者からあったことを思い出す。当時の官房長官から「直ちに人体に影響はない」という言葉を何度も耳にした。

 

簡単に復習すると、シーベルトとは人体が影響を受ける線量の単位で、ベクレルとは放射性物質の総量を測る単位である。

 

なぜか、設置されているもモニタリングポストはガイドさんが持っているガイガーカウンターよりも低い数値が出ているそうだ。勿論地面からの高さなど測り方によっても変わってくるそうだが、何かしらの意図が働いているとしたなら大問題だ。

 

避難区域に関しては聞いただけでは分かりにくいので、ガイドブックにある色分けされた最新の地図を見ながら位置情報を確認した。

 

帰還困難地域は年間50ミリシーベルト以上の高い線量のある地域。居住制限区域は、年間20〜50ミリシーベルト未満の地域。そして避難指示解除準備区域は年間20ミリシーベルト未満の地域。

 

今、徐々に避難指示解除がされ始め、「住むことが出来ますよ」と行政は帰還を呼びかけ環境整備を目指している。

 

でも、新しく避難指示が解除された地域でも、実際にはほとんど帰還されていないそうだ。新しい生活、仕事のこと、子供のこと、賠償問題など様々な要因が絡み合いすんなり進むはずがない。

 

「故郷には帰りたいが、安心して帰れない。特に子供のことを思うと尚更‥」率直に私ならそう考え、躊躇するだろう。

いずれにせよ非常に複雑で難しい問題である。

 

つづく

 

 

 

 

東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その2

我々が案内された場所は、南相馬市小高区浪江町の境界にある「希望の牧場」という所。
のどかで広大な牧場だった。牛たちが黙々と草を食べていた。

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そこで牧場主の吉澤さんという方をご紹介頂いた。

牧場のこれまでの歩みが分かる様々な写真や資料が展示されていたコンテナハウスで、吉澤さんから衝撃的なお話を伺った。中には餓死して白骨死体となった牛たち、体に白い斑点ができた牛たちの写真も展示されてあった。目を逸らさずにしっかり見なければと思った。

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 彼は原発から20キロ圏内の旧警戒区域内で誰もいなくなったこの町に1人残り、国の殺処分に抵抗し、命懸けで牛たちの世話をして来られた。原発事故後、放射能を浴びた牛たちはもう売れない。一時避難をされていた場所から警察を説得してまで入り、当時330頭いた牛たちに水をやり、エサを与え続け命を守って来られた。「売れない牛を生かして意味があるのか?」と自ら問い考えられたが、牛飼いとして牛たちを生かそうとされたのだ。

 

命を守る為には大量のエサが必要でありお金もかかる。全国からの支援者によって送られて来たエサが牛たちの命を繋いだ。近くの牧場主から頼まれた牛や、彷徨って来た牛たちも引き取った。それでも多くの牛たちが死んでいったが、一時牧場を離れる時にわざとフエンスを開けっ放して行ったことで、他の牧場からの牛もやって来た。

牛たちは必死で生きようとしていたのだ。そこで交尾が行われ、新しい命も誕生した。我々がその時目にした牛の多くは震災後に生まれた牛たちだそうだ。

 

コンテナハウスの前には改造された牧場の宣伝カーがあった。吉澤さんは、その宣伝カーを自ら運転し、東京や全国各地どこにでも行き、この理不尽な現状を訴える。

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あの時、日本の危機を救うために出動し、決死の覚悟で2号機に放水作業を行ったのは自衛隊員だった。冷却に成功していなかったら、東日本だけでなくこの国は壊滅状態であったであろう。

それでもこの国は原発は安全だと言って外国にも売ろうとしている。

吉澤さんは命のある限り、どこにでも行って、国や東電、そして国民に訴え続けると力強く語っておられた。

 

つづく

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東北の旅2016 〜会いたい仲間に会いに行く〜 【福島原発被災地編】その1

一週間経ってやっと書き出すことが出来たブログです。今回のブログは私が福島の原発被災地で見聞きしたことを本気で書きました。読んで頂ける方はそれなりの心構えで読んで頂ければ有り難いです。

 

 去る7月16日、我々が仙台空港からレンタカーで向かった先は約40キロ離れた相馬市だった。

2012年10月、私は妻と相馬市まで行ったがその先へと車を進めることをしなかったのは、正直言って、目に見えない放射能という存在に恐れをなしたことも理由の一つにあった。


その後、実際現地に足を踏み入れ、知っておかなければならないという思いが募っていった。訪問せずして福島について、原発について私は何も語ることができないと思ったからだ。

 

そこで、ネットでツアーを調べ、相馬市にあるNPO野馬土【のまど】さんが取り組んでいる福島第一原発20キロ圏内、約4時間のツアーに参加させて頂いた。


野馬土プロジェクトとは、「福島の被災農家を支えよう」「相馬に復興の砦を築こう」ということで地域活性化運動に懸命に取組んでおられる。


私が運転するレンタカーの助手席にガイドさんが乗車頂き案内して頂いた。

 

車内で「福島の悲しみを知ってください」と書かれた原発被災地ガイドブックを購入し、最初に向かった先は南相馬市だった。

 

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先ず放射能汚染についてのお話があった。福島の米、野菜、魚は全てしっかりと放射線量の検査がされ、安全なものだけが出荷されているということをお知りおきいただきたいとのお話だった。

 

だが直後、衝撃的な事実を知らされる。

 福島において、甲状腺ガンや疑いのある子供さんたちの数は急増しているが、行政は原発事故による放射能の影響との因果関係を認めようとはしない。ネットなどの記事で知ってはいたが、実際現地のガイドさんからそれを聞くと信憑性が増す。

 

そういったお話を聞きながら、白い作業着に身を包み除染作業をされている幾人もの姿があった。

 

除染は主に平地で行われ、表土を削り取り除去し、運んで来た山土が敷かれる。色が変わっているので直ぐに分かる。除染作業で出た汚染土などはフレコンバックという黒い袋に入れられ、仮置き場にどんどん積まれて行く。除染が進むほどその量は増える。

 

フレコンバックは、数年間風雨にさらされると当然劣化する。漏れ出すことで二次汚染が懸念される。

その異様な光景と、中に入っているものを想像すると恐ろしくなってくる。

 更に森林や急斜面は事実上不可能ということで除染はなされていないことも知った。

 

南相馬市小高地区と浪江町の境にある牧場で車を停めた。我々がそこで見聞きしたことは衝撃的であった。

 

つづく

 

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沢山の学びがあったお寺英会話サークル!

今日は久しぶりに第142回お寺で英会話サークルYKENGを開催しました。

始めに皆さんの好きな食べ物を当てるゲームから‥。

博識家でもある参加者のお一人の好きな食べ物バッテラで、それにまつわる様々なことを教わりました。

「バッテラ」の語源はポルトガル語で小舟を意味するそうです。

明治時代に大阪の鮨屋で、コノシロという海水魚の切り身を乗せていた箱が小舟のように見えたのがきっかけで、後にバッテラと呼ばれる寿司が生まれたそうです。バッテラの歴史はポルトガル語と大阪にあったのです。


それから私が担当したのは、英字新聞 週刊STの記事を使ってゲームをしました。

土用の丑」に関する記事を読んでもらい分からない単語をピックアップ、意味を調べ、単語カードを作ってもらいました。

記事に書かれていた内容から、土用の丑の日に鰻を食べる習慣は、江戸時代の博識者、平賀源内の発案であったという説があります。彼の友人が鰻屋を営んでおり、夏場に鰻の売れ行きが悪くて困っていた友人を助けるため、平賀源内が夏に食べてもらうよう宣伝したことに始まるそうです。

 

英語は話せることが大切なのではなく、どう言ったことが話せるか、歴史や文化など語学を通じて何を学べるかが大切だと改めて思いました。 

次回はお盆のために少し開きますが、8月24日(水)午後8時から開催します。テーマは「リオオリンピックで印象に残ったシーンを熱く語る」というタイムリーなトピックです!

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仏教・活動ブログ開設のお知らせ!!

お寺でイベントをしていますが、先ず檀家さんも檀家さん以外の方も含め多くの方にお寺に足を運んでもらうこと大切だと思っています。参拝者含め、人が集まらないお寺にはしたくありません。

法要の場所だけのお寺ではなく、楽しみながら、何かを感じ学べる場所にしたいです。

教育の場となりお寺や僧侶を身近に感じてもらい仏縁を繋げたいのも開催理由の1つです。


特に力を入れるようになったのは、2011年に起こった東日本大震災以降に始めたチャリティーイベントにコンサート、動かなければという強い使命感に駆られました。こういった福祉や平和、社会浄化に寄与した社会活動は宗門の規定にも謳われている僧侶に課せられている活動でもあります。


今後力を入れたいのは、子供向けのイベント、折り紙と算数講座、英会話など知育にで、地域に根ざしたお寺を目指したく思っています。


このようなイベントも大切ですが、自分にはもっと文書によって学んで来た仏教を伝えるという役割があると感じました。

お釈迦さまの教え、法華経の教え、仏教用語を中心に「人生に役立つ仏教」を難解な専門用語は極力使わずにエッセイスタイルで優しく綴っていくこことを心がけます。

 

新ブログはこちらなります⬇️

http://s.ameblo.jp/eishumitamura/

読者登録の方もよろしくお願いいたしますm(._.)m

FMちゃおさんの『PRIMALラジオ』にゲスト出演!

まさか私が公共の電波の前でお話しているとは思いもしませんでした。

6月19日、僭越ながらFMちゃおさんの第73回『PRIMALラジオ』にゲストとして出演させていただきました。http://792.jp/guest/index.php

 

番組内でいきなり自分のことをカミングアウトさせてもらいました(笑)。
あっという間の楽しい時間で、伝えられたこと伝え切れなかったことがありました。
リスナーさんの(予期せぬ?)質問コーナーもあり、公共の場で即興で答えることでこちらも勉強と鍛錬になりました!


⭐️全国で聴けるアプリ▷Tuneln Radio
http://tunein.com/radio/FM-Chao-792-s164698/

 

また後日、Ustreamで映像も流れるそうです!

⬇️写真はパーソナリティの嶋津亮太さん(右)と大根のりおさん(左)

 

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八尾市 田中誠太市長の記念パーティーに参加!

6月19日、八尾市田中誠太市長の、政治活動35周年・八尾市長10周年・大阪府市長会 会長就任記念パーティが大阪ホテルニューオータニであり、妻と参加させていただきました。

 

田中市長とは亡き先代住職からの繋がりで、東日本大震災のチャリティーコンサートを本照寺で主催させて頂いた際にはご多忙の中を毎年ご参加頂き、また昨年の私の新住職  入寺式の披露宴にもご臨席頂きました。大変有難かったです。

 

パーティーは議員さん始め多くの方々ご参加のもと、余興として音楽やマジシャンのパフォーマンスもあり盛り大いに上がりました。

精力的に動かれている田中市長、八尾のため大阪のために益々のご活躍を祈念しております。

 

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