仏教から社会を読み説く「桜田五輪担当大臣の発言」

桜田五輪担当大臣が、白血病を公表された競泳の池江選手について、「本当にがっかりしている」などと語ったことが問題になっている。

大臣は「治療に専念して、元気な姿を見せてほしい」と気遣う言葉も述べているので、全文を確認せず切り取ったと、マスコミに対しての批判もあるようだ。

それでも「がっかり」という言葉は、期待をしている方、国民を何がっかりさせてしまって、悪かったと思わせてしまう。

池江選手の立場を考えると、配慮のない言葉に違いない。

大変な病を患い闘おうとしている患者さんにとって、いくら元気な姿を見せて欲しいと言われた所で、少しでも嫌な感じと受け止められたらそれは使うべき言葉ではないということだと思う。

 

その前の麻生大臣の「子どもを産まなかったほうが問題なんじゃないか」との発言もそうだが、配慮のない失言を繰り返す人は、心の深層に染み込んでいるから、公の場であっても自然に言葉が出てくるのだと思う。

 

仏教では唯識という思想があって、怒り、嫉妬、絶望、失言などは全て心の深層部の仕業とされる。

心には意識できる表層部分だけでなく、その下に阿頼耶識【あらやしき】と言われる深い層があり、意識せずとも、これまでの経験によって形成されていくのだ。要するに、今までのその人の行為の積み重ねが阿頼耶識に付着し溜まっていくのである。(唯識では薫習【くんじゅう】するという)

 

特に大臣ともあろう人は、周りの環境を良くし、良い心がけ、言動を意識してもらいたいものだが‥

 

 

 

仏教から社会を読む説く「障害か障碍か?」

最近、「障害」を「障がい」とする表記を目にすることが多くなってきた。

障害は「害がある」「害を及ぼす」など否定的なイメージが強いということで、先日、宝塚市が市の公文書で、「障害」ではなく「障碍」という表記を使う方針を決めた。全国初とは意外だった。

 

一方でNHKが「害」を使い続けているのには、明確な理由があるようで、「障害」はその人自身に害があるのでなく、社会にある障害と向き合っている人たちと捉えているからだそうだ。

 

障碍の『碍』が、まだ常用漢字として採用されていないのも意外だった。

因みに仏教では障碍を「しょうげ」と読むが、「さとり」を得るにあたって、妨げ、障りとなる煩悩とされ、お釈迦様が成道される際にも、降魔と言われる誘惑、修行の妨げがあったと伝えられる。

 

何れにせよ、その方の捉え方によって大きく変わるデリケートな問題なので配慮が大切だと思う。

 

 

仏教から社会を読み説く 「恵方巻きの大量廃棄」

今や2月3日の節分の風物詩でもある恵方巻き。

近年、売れ残り商品の大量廃棄が食品ロスが問題となっている。農林水産省から作り過ぎを控えるよう業界などに要請があったようだが、少し減ったとは言え、相変わらずかなりの大量廃棄量だったみたい。

 

恵方巻きに限らない。毎年のクリスマスケーキもそうだし、日常的にも外食産業、家庭から出る生ゴミからもかなりの食品ロスが出ているようだ。

 

世界の人口の半数近くが一日200円以下で生活を余儀なくされる貧困層、さらに8億人超が栄養不足との報告もある。

食べたくても食べられない人々、飢餓状態にある子供さんが沢山いることを心して考えなければならない。

 

我々日蓮宗の僧侶は、修行の際、食前に食法(じきほう)という文言を唱える。最後の部分を抜粋する。

「‥たとえ一滴の水、一粒の米も功徳と辛苦によらざることなし。我等これによって心身の健康をまっとうし、仏祖の教えを守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ。南無妙法蓮華経

 

天地の恩恵、幾多の犠牲と労働の元、私たちは食材の命を頂いている。

人間は栄養を摂取しなければどうなるだろうか?

改めて今ある我が命について考える必要がある。

 

 

 

 

 

仏教から社会を読み説く「不正とは」

「仏教から社会を読み説く」というテーマで少しずつ書いて行きます!

 

「不正」とは読んで字の如く正しくないことで、正義ではないこと、よこしまなことという意味でも使われる。

今、不正な調査によって政府への信頼が益々揺らいでいる。

 


お釈迦様は八正道という八つの正しい実践徳目を説かれた。

一、正見→正しく道理を見る、観る

一、正思→心しい思惟、正しく考え思うこと

一、正語→偽りのない正しい言葉遣い

一、正業→不正のない正しい行い

一、正命→正しい生活

一、正精進→正しい努力

一、正念→正しい心の落ち着き

一、正定→正しい精神統一

 

これらの実践が、煩悩をなくし、苦しみを滅する方法だと説かれている。

国民の代表者が嘘、偽りの繰り返し、不正を行っている限りは、不安や怒りを増長し、安定した社会からは程遠いだろう。

平成最後の初講&新年会

12日は、当山で初講&新年会がありました。

初講(はつこう)とは、同一の信仰を持つ人々が集って仏典を年始に初めて講じること、読誦会を行うこと、初の仏事、法会、儀式であります。

 

元来は「講義」「講読」の「講」であり、平安時代に仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであったそうです。お講と呼ばれ、現代に至ります。

 

初講での挨拶は、干支についての少しお話しました。

 

今年は己亥(つちのとい)であります。十二支と十干の組み合わせで60年に一度訪れます。

己とはもつれ絡まった糸を解きほぐすという意味があります。改、起という漢字に含まれているように、物事を再起、改めやり直す年にしたいものです。

 

また、亥は固いものや物事の骨格、中心を意味し、核という漢字がまさにそれを表しています。刻とすれば、心に刻む、歴史が刻まれる年となるでしょう。信仰面から申しますと、更なる信力堅固にしたいものです。

 

初講の後は、檀信徒会館で新年会をさせて頂きました。今年は住職とジャンケン大会をしました。住職に勝った方から、袋に入った景品が選べ、ゲットした順に一言述べて頂きました。中々盛り上がりました。

 

自分がやりたい事を行うよりも、人に喜んでもらえるお寺にして行きたいと考えています!

本年もよろしくお願い致します。

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平成31年 新年のご挨拶と今年の抱負

新年明けましておめでとうございます。旧年中はご高配を賜りまして厚く御礼申し上げます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 

「1年の計は元旦にあり」と言われるように早い目に計画を立てて臨むことが大切です。

皆さんは今年の抱負や計画を立てられましたか?

 

今年の抱負という程、大それたものでもありませんが、住職として年始に綴っておきたいと思います。

 

昨年末から始めた写経会のイベントを継続し、英会話サークルや、大切なお寺の行事についても見直し、人が訪れたいと感じるお寺を目指し、工夫を凝らしたいと思います。

 

肝要なことは、自分がしたい事を考えるよりも、人に喜ばれることを考え行うことを大切にしたいと思います。

 

最後になりましたが、皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。

 

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平成最後の大晦日に‥

平成30年もあと数時間で終わり、新しい年を迎えます。様々な方々にお世話になり今年も無事に過ごすことが出来ました。心より感謝申し上げます。

 

それにしても今年は各地で大きな災害が多発した年でした。災害により亡くなられた方々のご冥福を改めてお祈りすると共に、被災され未だ不自由な暮らしをされている方々へ心よりお見舞い申し上げます。

また、本年亡くなられた多くの著名人方々始め、亡くなられた全ての万霊に祈りを捧げます。

 

私欲に塗れた国家、政治、社会の体たらくにはうんざりでした。道標を誤ってしまうと平和で安穏な国には中々成り難いです。

 

マイナスな面ばかり悲観しても仕方がありませんから、明るい笑顔に満ち溢れるよう、

新年が良き年になることをお祈り致します。

 

皆様のご健康とご多幸をお祈りします。

新年もよろしくお願い申し上げます。

 

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